<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
『仏教徒信仰的是什麼』から抜粋翻訳
(P70~)
《仏教とは何か?》
仏教とは神聖なる真理である。
仏教とは何か?
この問題に、人々は困惑し、混乱して来た。
故に、人々は、常々、この様に質問をする:
仏教は哲学であるか?
宗教なのであるか?
人の生活様式に関する教えであるのか?
簡単に言えば、仏教とは、博く大きく、精緻で深く、どのような巧緻な人間であっても、それを固定的に説明したり、狭隘な範囲に押し込んだりする事はできないものである。
当然、仏教とは、哲学、宗教と生活の方式を含むものではあるが、しかし、仏教とは、上記に述べる範疇に収まらないものでもある。
固有の範疇または標識でもって仏教を定義しようとするのは;
ポスターを貼って、彼らが今、何をしようとしているかを、人々に伝えようとする様なものである。
もし、薬局を例にとると、我々の理解は更に、進むであろう。
薬局の告示板自体は、人々の病を治せないが、しかし、薬は確かに、病気の治療に有用である。
我々は薬によって病を治すのであり、薬局の広告や告示板を決して見ることはないのである。
同様に、仏教が有用であると認めるのであれば、それを利用すればよく、その広告の言葉、範疇を規定する言葉を、気にする必要ないのである。
仏教を、簡単な、または固定的な概念・範疇に押し込めたり、広告の形式に当てはめてはならない。
異なった人々が、異なった時代と環境の中で生活している。
仏教に対して、必然的に異なった見方と解釈が生まれるのは、当然である。
ある種の人々にとって、仏教とは、一塊の迷信と儀式の様に見える。
ある種の人々にとって、仏教とは、短期的な、利益を得る道具の様に見える。
ある種の人々にとって、仏教とは、古に流行した遊びの様に見える。
そして、ある種の人々にとって、仏教とは、インテリにとっての、思想体系であると思える。
ある種の人々にとって、仏教は、科学的発明の様に見える。
そして、敬虔な仏教徒とって、仏教とは、彼の生命全体であり、彼の一切を犠牲にしても、完成するべき人生の一大事だ、というのである。
(C-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
<原題『仏教徒信仰的是什麼』中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>