<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
『仏教徒信仰的是什麼』から抜粋翻訳
(P84)
紀元前3世紀、Asoka王の時代、第三次結集が行われた。
この回の結集において、僧たちは、經蔵と律蔵に対して、みな意見を発表し、經蔵と律蔵に対して、一致してその改定に臨んだ。
この結集の後、司会者であったモッガリプッタ・ティッサ尊者は、経蔵を整理して、一冊の「論」《弁宗義論》(Katthavatthu)を作成し、信徒たちがさらに容易に仏陀の教義を理解できる様にした。
上座部は、論蔵(Abhidamma)を受け入れる事を通して、それを仏教経典の一部分としした;この時、三蔵経典は初めて、完全な定型を得たのである。
紀元80年、第四次結集が、スリランカにおいて成され、国王Vattagamini Abbaya によって主催された。
ここにおいて、仏教史上、初めて、三蔵経典が文字によって記載される様になったのである。
三蔵の宝典は、三個の部分に分かれている;律蔵、經蔵と論蔵である。
(E- 3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay