般若の独り言~本雅難陀尊者法話 in 台湾
既出の通り、私は2月、3月に台湾(嘉義法雨道場&苗栗法華寺)で、本雅難陀尊者のリトリートを受けてきました。
毎日のリトリートの、夜8時からは法話があります。
ある日の本雅難陀尊者の法話。
『みなさん・・・なぜ緬甸を含め、世界中に、この様な、間違った仏陀の修行法が蔓延しているのでしょうか?』
『それは、ある種の人々が、経典の一部だけを読んで、早飲み込みをして、己の考えだけで、瞑想法を組み立てるからです。』
『大念処經の「歩く時は歩く事を知り・・・云々」の本来の意味は、歩く時は、己自身の(+鼻の前にある)禅相を知りつつ歩き・・・です。
歩く時は歩く事を知っている・・・のならば、犬でも出来るし、赤ちゃんだって、自分が何を食べているかぐらい、知っているのです。
仏陀の瞑想法は、究極法(=素粒子の刹那生・滅、無常・苦・無我)を照見する為のものです。
歩く時は歩くを知って・・・は如理作意の範囲です・・・一体それで誰がどの様にして、究極法を悟れるというのでしょうか?』
『大念処經の翻訳自体が、間違っているのです(注1)。我々は、正しい瞑想法に出会う為には、(パーリ語の)経典を読み、註釈書、複註釈書を調べ、論書(アビダンマ)、清浄道論を研究しなければなりません。そのどれか一つでも軽視するならば、あなたは瞑想法を間違ってしまうでしょう。』
『仏陀の瞑想法に関して、軽軽に判断しては、取り返しのつかないことになります。』
僭越ながら、仏教書の翻訳を終生の任務であると心得ている私にとって、耳の痛い話でした。
「仏教書は意訳してはならない」という、古のチベットの国王(サンスクリットの仏教書をチベット語に翻訳する様命令した)の厳命が、身に滲みます。
<注1>尊者からは、なぜ「大念処經」の翻訳に間違いがあるのか、の説明はありませんでした。興味のある方は、尊者の話を参考に、ご自分で研究されてみて下さい。また、経典に書かれてある事は、仏陀の教えの外皮、概要であり、究極の悟りの為の修習を実践する為には、アビダンマを理解しなければならならない、と尊者は述べておられました。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>