<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
ここにいる、あなた方を例にしましょう。
あなた方は、あなた方の目の前にいる師父を見ていて、同時に師父の開示を聞いている。
この時、あなた方の色所縁は、師父を見ることであり、「ああ~師父だ」(+と思う);
耳門で仏法を聞くが、これは音所縁である。
この様に、「眼門心路過程」と「耳門心路過程」は、前後して、過ぎ去って行く。
「眼門心路過程」は:
眼門転向、眼識、領受(=受領)、推度(=推測)、確定、7刹那速行、2個の彼所縁である。
もし、概念所縁であれば、彼所縁はない。
ただ「色彩」を知るだけであれば、この<師父が見えた>という事柄は、概念法であり、彼所縁はない。
→「有分心」が滅した後、次に生起するのは「意門転向」であり、その後に「彼随起心路過程」(=前者に従って生起する心路過程の意)が「眼門」において色所縁を生起せしめる。
・・・「意門転向」→7刹那「速行」→2個の「彼所縁」。
「意門心路過程」は、前の「眼門心路過程」によって所縁を取るため、前の五個の「彼所縁」心路過程においては、これが師父であることを認識できない。(訳者注)
6番目の「彼所縁」心路過程になって初めて、これは白色、赤い、褐色だ、などと分かる。
この「知る」は概念的な知るであって、故に6番目の「彼随起」心路過程の時になって初めて(+対象が何であるかを)知る;第七、第八番目で初めて、これは何の色彩であるかが分かる;第9、第10番目で初めて、この人は出家であるとか、在家であるとかが分かる。
訳者注:下線は訳者。原文の意味が不明瞭の為、直訳したが、齟齬の可能性あり。
(29につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>