本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-29(28/82)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
次に「聞く」であるが、「聞く」は、「耳門心路過程」である。
先ほど、師父が開示をしている時、みなさんは、分かった様な、分からない様な・・・。
これは「一心は二個の所縁を取らない」、が原因である:
何か考えことをしている時は、意門心路過程であり;
聞いている時は、耳門心路過程である。
今は、意門心路過程で、次の瞬間は耳門心路過程・・・であるから、私が何を言っているのかを、上手く聞き取れない。
・・・(+心が)意門心路過程にある時、耳門は仕事をしない。
この時「彼所縁」は「耳浄色」を打つだろうか?
打つ。
しかし、耳門心路過程は、生起しない。
故に、あなた方が、何か、思いにふけっている時、あなたの眼前を、人が通っても気が付かないし、誰かがあなたを呼んでも、聴こえない。
というのも、「耳浄色」は、ただ音所縁が(+耳を)打つ時に、それを受け取る役割をのみ担当しているが故に。
それは、一粒の透明な色聚・・・「耳十法聚」の中の、第10法に属する。
その前の9法(地、水、火、風、色彩、匂い、味、栄養素、命根)は、音とは関係がない。
六門心路過程を理解することは、16観智の「名色分別智」である。
であるから、第一段階の「色分別」は、その学びを必ずや成功させなければならない。
そうして初めて、観禅 vipassana に進むことができる。
このことから、腹部の呼吸を知るは、観禅 vipassana の所縁ではないことが、分かる。
この種の修習では、究極法の無常・苦・無我を知ることはできない。
呼吸、歩く、食べる、眠る、これら身体の動作は概念にすぎず、観禅の所縁とはなり得ない。
これらの概念法は、ただ、止禅の目標となり得るだけである。
(30につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>