本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-42
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
▲「滅」には二種類ある:
有生滅法と、無生滅法である。
例えば、我々がものを見る時、「眼門心路過程」が生じる;
「眼門心路過程」が生じる時、耳門心路過程は生じない。
というのも、一個の心刹那において、一心は、二個の所縁を取る事ができないが故に。
眼門心路過程の中において:
眼門転向、眼識、領受(=受領)、推度(=推定)、確定、速行、彼所縁・・・これらは一刹那毎に、快速に生じて、また滅する。
眼門転向は、刹那に生起すると、また刹那に滅し去るが、眼識もまた、刹那に生起し、また滅し去る。
これを「有生滅法」と言う。
己が非常に腹を立てていて、もうすぐ感情が爆発しそうであっても、家人や友人を見ると、破顔して会話する。
この腹を立てている時の「瞋心」は、「有生滅法」である。
この生起と滅し去る状態のものは、「有生滅法」であり、究極の「無生滅法」ではない。
ある一人の凡夫が、初果ソータパナに成る時、元々あった邪見と懐疑(三宝への懐疑、三世因果輪廻への懐疑、仏陀の戒定慧の教えへの懐疑、地獄に落ちる8種の因果への懐疑)は、その時、初めて、刹那に、断ずる事ができる。
真正なる究極名色法は、誰でもが受け入れられるというものではない。ある種の人々は、私の開示の意味が分からなくても、そこに座って聞き、己自身を無理やり追い込んで、苦労しながら、そこに座って、忍の一字で、聞いている。
ある種の人々は、あなたはあなたの話をしてよく、私は私の思いにふける。
開示を聞く時、己自身は、思いっきり思いにふけり、楽しくて仕方がない。
この様に、仏法の開示を聞く場合でも、その心路過程は、人によって、各自異なるのである。
故に、我々は、「苦聖諦」を知る時、必ず、苦の因と縁である所の「苦集聖諦」を、調べなければならない。
この一世の五取蘊は、どこから来たのかを知り、過去の一番目の世の、五取蘊はどこから来たのを知る(+のが重要である)。
多めに調べておけば、それらを理解する事ができる。
私は以前、華人には、10個の過去世を調べる様に指導したが、現在、私は、少なくとも30個の過去世を調べる様に要求する。
ある種の人々は、50個、調べなければならない。
なぜであるか?
というのも、あなた方華人は、過去世において、非常に多くの、小さな善業をなしていて、故に、ある種の人々は、10個の過去世を調べても、悪趣に堕ちたことがない。
いつも人界にいるか、または天界にいて、楽しく暮らしている。
10個の過去世を調べて、ようやく一回、餓鬼道に堕ちた事を発見する。
再度 10個調べさせると、ようやく、第22世において、地獄に落ちたことが分かる。
過去の第23世は、人界にいて、何かの悪業をなしたので、第22世では、地獄に堕ちたのである。
(+この禅修行者は)こうした事が分かって初めて、悚懼の気持ちが出て来て、二度と輪廻したくない、と思う様になった。
上の様に指導しなければ、彼は、己自身が人界と天界のみ行き来して、この様な輪廻は楽しいものだと思い、悚懼の気持ちの生じる事がない。
故に、雅凱禅林では、師父は、一人ひとりの禅修行者に、少なくとも30個の過去世を調べる様、要求する。
ある一人の禅修行者は、30余個の過去世を調べた時、たった一回餓鬼、一回地獄の命であった。
しかし、その生で、その様になる因と縁を見つけることができず、最後になって、過去の第54個目の命の時に、その因と縁を見つける事ができた。
こうしたことから、因と縁は必ずはっきりと調べられなければならないものである。
そうして初めて、輪廻というものは、真に苦しいものだという事が分かるのである。
ある時のある命が、不注意で、何か一個の、悪業をなしたならば、果報が熟した時、非常に悲惨なことになるのである。
(43につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>