南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

本雅難陀禅師アメリカ法話第一集-58

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

先ほどの、安楽な感覚を取り戻そうとして、更に緊張し、更に頑張ると、心は更にイライラし、不快になり、故に、更に更に頑張るため、更に更に不快になる。

これでは、修行が辛くなる。

安般は、苦行ではない。

安般は、非常に静かな業処であり、故に、心は、穏やかでなければ、ならない。

座禅・瞑想の時、身体の如何なる感覚にも、対応しない(=見に行かない)。

座禅・瞑想をして、足が痛くなるのは、日常的に、業処を濃密に保持していないのが、原因である。

足を替えたいというのは、二種類の原因がある:

一つは、普段、業処を濃密に保持していないが故、心が不安定で、その為に、不断に足を替えたい、と思う;

そして、足を替えてばかりいるが故に、心は、少しも静まらない。

これは、業処が原因ではなく、日常生活において、正念力の濃度が、足りないのが、原因である。

どの様に解決するのか?

非常に簡単である。

心は、業処に保持したまま、人間は、下座するものの、心は依然として、業処の中において(+意識を)保つ。

呼吸を知る、という目標を、放棄してはならない。

呼吸を知っている、という状態のもと、行住坐臥する時、動作が大きいのは、いけない。

(+動作が大きくて、正念が)途切れたならば、次の座禅・瞑想の時に、一からやり直しになる。

故に、どれだけの時間坐るか、などと固定的に決めてしまわず、調子の良い時は長めに座る・・・ある時などは、四時間座れる時もある。

ある時は、半時間座っただけで、幾阿僧祇劫も長く座った感じがして、非常に辛い。

足は痛いし、痺れるし、身体全体も痛い。

外で、自動車が通っただけで腹が立つ。

これは、業処の問題ではなくて、日常生活の上で、濃密に業処を保っていないのが、原因である。

行住坐臥において、濃密に業処を保持できる修行者は、随時に、己自身が呼吸を知るという事を、濃密に知り続けている様、気を付けるものである。

この様にすれば、(+修行は)非常に順調に進む。

この様に、濃密に修行する人は、最大で一、二週間あれば、禅相と呼吸は、自然に結合するものである。

この様な、濃密に修行ができな者は、いつ修行に成功するかは、知る事ができない。

これは、修行者自身が、濃密に業処を保っているかどうかが問題であって、業処そのものとは関係がないので、業処を変更する必要はない。

正念力が濃密でない人は、どの業処に変更しても、成功しない。

これは、仏陀の教えを聞かない故であって、また、業処に集中しない為であり、業処の適合、不適合とは関係がない。

《大念処(ママ)》に述べられている通り、托鉢の時も、食事の時も、袈裟を洗う時も、話をする時も、または黙っている時も、行住坐臥全体において、濃密な業処(+への意識)を保っていなければならない。

呼吸が微細に変化した時、呼吸が明確になる様にと、力んではならない。

己自身に確認する事:

私は、出入息に注意を払わない。

私は、ただ自然な呼吸を知ることに努めよう、と。

この様に、己自身が確認・決意すれば、呼吸は更に柔和になり、更に快適になる。

(59につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>