<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
先ほどの、安楽な感覚を取り戻そうとして、更に緊張し、更に頑張ると、心は更にイライラし、不快になり、故に、更に更に頑張るため、更に更に不快になる。
これでは、修行が辛くなる。
安般は、苦行ではない。
安般は、非常に静かな業処であり、故に、心は、穏やかでなければ、ならない。
座禅・瞑想の時、身体の如何なる感覚にも、対応しない(=見に行かない)。
座禅・瞑想をして、足が痛くなるのは、日常的に、業処を濃密に保持していないのが、原因である。
足を替えたいというのは、二種類の原因がある:
一つは、普段、業処を濃密に保持していないが故、心が不安定で、その為に、不断に足を替えたい、と思う;
そして、足を替えてばかりいるが故に、心は、少しも静まらない。
これは、業処が原因ではなく、日常生活において、正念力の濃度が、足りないのが、原因である。
どの様に解決するのか?
非常に簡単である。
心は、業処に保持したまま、人間は、下座するものの、心は依然として、業処の中において(+意識を)保つ。
呼吸を知る、という目標を、放棄してはならない。
呼吸を知っている、という状態のもと、行住坐臥する時、動作が大きいのは、いけない。
(+動作が大きくて、正念が)途切れたならば、次の座禅・瞑想の時に、一からやり直しになる。
故に、どれだけの時間坐るか、などと固定的に決めてしまわず、調子の良い時は長めに座る・・・ある時などは、四時間座れる時もある。
ある時は、半時間座っただけで、幾阿僧祇劫も長く座った感じがして、非常に辛い。
足は痛いし、痺れるし、身体全体も痛い。
外で、自動車が通っただけで腹が立つ。
これは、業処の問題ではなくて、日常生活の上で、濃密に業処を保っていないのが、原因である。
行住坐臥において、濃密に業処を保持できる修行者は、随時に、己自身が呼吸を知るという事を、濃密に知り続けている様、気を付けるものである。
この様にすれば、(+修行は)非常に順調に進む。
この様に、濃密に修行する人は、最大で一、二週間あれば、禅相と呼吸は、自然に結合するものである。
この様な、濃密に修行ができな者は、いつ修行に成功するかは、知る事ができない。
これは、修行者自身が、濃密に業処を保っているかどうかが問題であって、業処そのものとは関係がないので、業処を変更する必要はない。
正念力が濃密でない人は、どの業処に変更しても、成功しない。
これは、仏陀の教えを聞かない故であって、また、業処に集中しない為であり、業処の適合、不適合とは関係がない。
《大念処(ママ)》に述べられている通り、托鉢の時も、食事の時も、袈裟を洗う時も、話をする時も、または黙っている時も、行住坐臥全体において、濃密な業処(+への意識)を保っていなければならない。
呼吸が微細に変化した時、呼吸が明確になる様にと、力んではならない。
己自身に確認する事:
私は、出入息に注意を払わない。
私は、ただ自然な呼吸を知ることに努めよう、と。
この様に、己自身が確認・決意すれば、呼吸は更に柔和になり、更に快適になる。
(59につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。<翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>