<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
死随念(maraṇānussati)
パーリ聖典の《大念処経Mahāsatipaṭṭhāna Sutta》と
《清浄道論Visuddhimagga》によると、死随念は、あなたが曾て、見たことのある死体を用いて、修行する事が出来る、という。
故に、あなたは、死体の不浄観によって、再度初禅に入り、その後に、以下の様に思惟する:
「私の身体もまた必ず死ぬ。
将来において、死んだならば、この死体と同じ様になるのであり、この様な経過は、避ける事が出来ないものである。」
心をして、(+人は)必ず死ぬという、己自身の本質に専注せしめれば、あなたは心内に悚懼感(注15)(saṁvega)が生起するのを、発見するであろう。
この悚懼感によって、あなたは、己自身の身体が、嫌悪すべき死体になっている事に気が付く。その後、己自身の死体の、そのイメージの中の命根が、すでに断絶しているのを知ったならば、あなたは、当該の命根の断絶に専注して、以下の語句の中の一種類を選択して、憶念する:
1、私は必ず死ぬ、人命は無常なるものである
(maraṇaṁ me dhuvaṁ、jīvitaṁ me adhuvaṁ);
2、私は必ず死ぬ
(maraṇaṁ me bhavisssati);
3、私の生命は死亡の時に断絶する
(maraṇapariyosānaṁ me jīvitaṁ);
4、死、死(maraṇaṁ maraṇaṁ)。
あなたは、上の、どれか一種類の言語(=項目)でもって、それを憶念する。
己自身の死体の中の命根が、存在しないイメージに対して、静かに専注できる様になるまで修行し、それを一時間または二時間維持する様にする。
この時、あなたは五禅支が生起しているのを発見するであろう。但し、この法門は、近行定にしか到達する事ができない。
注15:悚懼感(saṁvega):怖れと警戒の心。世間の不幸によって、引き起こされた、宗教的感情。悚懼感を起すには、以下の様な、8種類の対象がある:生老病死、悪道に堕ちて苦しむ事、及び、過去・現在・未来における輪廻が齎す苦痛。
(4‐30につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijyubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版
中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>