<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
第八章:縁起第五法
Paṭiccasamuppāda
《相応部・大因縁經》(Mahānidāna Sutta)の中において、以下の様に言う:
Gambhīro cāyam Ānanda
paṭiccasamuppādo
gambhīrāvabhāso ca.
Etassacānanda dhammassa
ananubodhā appaṭivedhā
evamayaṁ pajā tantākulakajātā
gulāgaṇṭhikajāta
nuñjapabbajabhūta apāyaṁ
dhggati、vinpātaṁ saṁsāraṁ
nātivattati.
ーー「アーナンダ、この縁起というものは、確かに奥深く、また奥深いものである。未だ三遍知(注35)でもって、徹底的に縁起を知見しておらず、道果を証悟する事が出来ない有情は、生死の輪廻の中にからめとられ、ちょうど結び目がこんがらがった糸の(+玉の)様に、または織巣鳥の巣の様に、または端を見つける事の出来ない草製の足ふきマットの様である。
そして、その上、彼らは悪趣輪廻から離脱する方法を持たない。」
上の如くの教えに基づき、論師方は、《清浄道論》(第17章)の中において、以下の様に言う:
Ñāṇāsinā samādhipavarasilāyaṁ
sunisitena bhavacakkama-padāletvā、
asanivicakkamiva niccanimmathanaṁ Saṁsārabhayamatīto、na koci supinantarepyatthi.
ーー「もっとも優れた定石で磨いて鋭くなった智の剣でもって、絶え間ない壊滅性を有する有論(縁起論の事)を一刀両断できるのでなければ、誰も輪廻の畏怖から解脱する事などできない。たとえ夢の中でさえも。」
上に述べた経典と、註釈の教えに基づけば、涅槃を証悟したいと思う禅修行者は、三遍知でもって、12縁起を知見する様、必ずチャレンジしなければならない。仏陀は教えて言う:何度も、繰り返して、随覚智(すなわち、無随覚、ananubodha)及び通達智(すなわち、無通達、appaṭivedha)を、道果を証悟するに至るまで、明確にすることができないが故に、人々は、生死輪廻から解脱する事ができない。
故に、人々は、随覚智と通達智を明確にするために、(+修行に)チャレンジしなくてはならない。
「明確にする」とは、推理で知るのでもなく、憶測で知るのでもなく、また、仏陀の言葉を記憶しておくだけのものでもなく、他人の言葉を記憶するものでもない。
注35:三遍知(tipariññā):所知遍知(ñāta pariñña)、度遍知(tīraṇa pariñña、また審察遍知とも)及び断遍知(pahāna pariññā)。所知遍知はまた随観智(anubodhañāṇa)の事である。度遍知と断遍知は、通達知(paṭivedhañāṇa)の事である。
(9-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>