<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
また、《増支部・三集》(Aṅguttāra Pāḷī Ṭika Nipāta)の中において、一切の縁起支は、皆、集諦である、と教える:
Katamañca bhikkhave dukkha
samudayaṁ ariyasaccaṁ.
Avijjā paccayā saṅkhārā、
saṅkhāra paccayā viññāṇaṁ、
viññāṇa paccayā nāmarūpaṁ、
nāmarūpa paccayā saḷāyatanaṁ、
saḷāyatana paccayā phasso、
phassa paccayā vedanā、
vedanā paccayā taṇhā、
taṇhā paccayā upādānaṁ、
upādāna paccayā bhavo、
bhava paccayā jāti、
jāti paccayā jarāmaraṇasokaparidevadukkhadomanassa-
upāyāsā sambhavanti.
Evametassa kevalassa dukkhakkhandhassa
samudayo hoti.
Idaṁ vuccati bhikkhave
dukkha samudayaṁ ariyasaccaṁ.
《諦相応・重閣經》(sacca Saṁyutta、Kūtāgāra Sutta)の中において、以下の様に言う:
もし、人が、智でもって、四聖諦を徹底的に知見する事が出来ないのであれば、生死輪廻を終わらせる事はできない;
唯一、己自ら智でもって、徹底的に四聖諦を知見する者だけが、生死輪廻を終わらせる事ができる。
こうしたことから、生死輪廻を終わらせたいと思う禅修行者は、智でもって、四聖諦を徹底的に知見する事に、尽力しなければならない。
なお、集諦は、四諦に含まれる事を、しっかりと覚えておく事。
仏陀は言う:愛は集諦である、と。
故に、禅修行者は、今世の苦諦を引き起こした愛(集諦)は、何時生起したのかを、探索し、省察しなければならない。
taṁ hoti dukkhasaccaṁ、
taṁ samuṭṭhāpikā purimataṇhā
samudayasaccaṁ.(《迷惑氷消》)
ーーその意味は:
名と色は、五蘊である。
その五蘊とは、苦諦である。
過去世において、累積した所の、苦諦を引き起こす事の出来る愛は、集諦である。
上に述べた註釈の教えに基づけば、禅修行者は、彼の、今世の五蘊(苦諦)を、引き起こす所の愛(集諦)は、今世で生起した愛ではなく、過去世において累積した所の愛である事を、明白に了解しなければならない。
(9-8につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>