<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(四)如法性理
(Evaṁ Dhammatānaya)
ヨーグルトが、牛乳から出来ている様に、もし、因(たとえば、無明)が、果を生じさせる時、その果は、確実・絶対的に(行)のみであって、その他の果が、生起する事は、有り得ない。
言い換えれば、もし、無明、愛、取、行及び業の諸々の因が、果を生じさせる時、生起するのは、識、名色、六処、触と受の諸々の果であって、その他の果は、生起しえない。
これが、如法性理である。
もし、禅修行者が正確に、如法性理を知見する事ができたならば、因果を排斥する所の無因見(Ahetuka diṭṭhi、すなわち、因というものは無いという邪見)と無作見(すなわち、「做したことは、做したことにならない」という邪見)を、断じ除く事ができる。
若し、観法に誤謬のある時、彼は、果は固定の因から生じるという事を、受け入れることが出来ず、また、因は、固定的な果を、引き起こすのだという考えを、受け入れる事が出来ないが故に、無因見と定論(niyata vāda)を、持する事になる。(《アビダンマッタサガハ註》、《清浄道論》第17章)
定論(Niyata Vāda)
定論とは、有情の善報及び悪報は、早くから決定されているものである、という考えであり、業力果報を否定する、邪見である。
故に、修行者は知らねばならない。
己自ら、縁起の法を、徹底的に知見する事は、各種の邪見を断じ除く、最上の法である事を。
要点
以下の四種類の目標(所縁)は同じものである;
1、前の一世の臨終速行心の目標。
2、今世の結生心の目標。
3、今世の有分心の目標。
4、今世において生起するであろう死亡心の目標。
この四種類の心の中において、禅修行者がいまだ未来を識別していないのであれば、彼は、(1)(2)及び(3)の目標が、一致しているかどうかを、正確にかつ細心に、識別し、検査しなければならない。
また、もう一点、この一生の結生心、有分心と死亡心の中の、心と心所の数量は、同じでなければならない、という事である。
それらを何度も繰り返して、子細に、正確に、識別する事。
この段階において、禅修行者はすでに、有分心を正確に、識別する事ができている。
もし、それを識別する事が出来ないのであれば、結生心の名法を、識別する。
その後に、結生心の滅後(及び心路過程が未だ出現する前)に生起する所の、心と心所の組み合わせ(有分心)を識別する。
心路過程が、いまだ出現しない時、これらの有分心は、継続して生起する為、再度、諸々の心路過程の間に生起する所の、有分名法を識別すれば、この点を、明らかにする事ができる。
(9-32につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>