お隣りの市の図書館から、
《なぜ今、仏教なのか》(ロバート・ライト著)
を借りて来て、読んでいます。
いわゆる、西洋で流行した(今も流行している)「マインドフルネス瞑想」の解説書です。
私は、40代の時に、(マハーシの)ラベリング瞑想に取り組んだ事がありますが、言語を使う瞑想は、結局、概念を超えられない事に気が付いて(概念こそが己の足枷)、早期の内に中止して、安般念に変えた(正確には、30代のころから実践していた安般念に戻した)、という経験をした事があります(ラベリング瞑想法は、瞑想初心者が、3か月、半年程、取り組むにはよい瞑想法だと思います。但し、ラベリングが癖になって、それが、サティ、一境性の障壁になるという副作用に、ご注意下さい。)。
私は、瞑想の歴史に詳しい訳ではありませんので、マハーシのラベリング瞑想を、マインドフルネス瞑想と呼ぶかどうか、寡聞にして知りませんが、私の知る所では、60年代に、主にタイの森林僧院で修行した西洋人(ベトナム戦争に従軍した兵士など)が、母国に戻った後、西洋文化のまっただ中に生きる人々に、テーラワーダ(上座部仏教)の、サンマ・サティ(正念)の紹介をするのに、<マインド・フルネス>という詞を使ったのが、始まりの様です(厳密な定義を言いますと、<サンマ・サティ>は、「業処を忘れない事」ですから、<マインド・フルネス=全方位的気づき>と、全く同じには、なりません)。
世には色々な瞑想法がありまして、どの瞑想法も、その切り口、入り口がどの様なものであっても、結局、サティ(マインドフルネスを含む)の力を高めて、一境性を育成し、五蘊(色、受、想、行、識)の織り成す、己自身と世界への幻想(顛倒夢想)から離れる事、が主眼になっていて、そうであってこそ、<仏陀の瞑想>と言えるのだ、と思います。
前置きが理屈っぽくなりましたが、
《なぜ今、・・・》
は、仏教用語テンコ盛りのアビダンマ・オタク(笑)の説明とは違って、誰にでも平易に開かれていて、理解しやすいものになっている、と思います。
一度、仏法の原点に戻って、色々考えてみたいけれど、
アビダンマは、緻密過ぎて苦手・・・という人にお勧めです。
あ、あと、仏教教条主義の病にかかっている人にも・・・効きます。