<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(三)触(phassa):
触が最も顕著であるが故に、「触が生起するが故に、受が生起する」(phassa samudayā vedanā samudayo)
等の教法が存在する。
《発趣論》(Paṭṭhāna、24縁)の中において、以下の様に言う:
Cattāro khandhā arūpino aññamaññaṁ sahajātapaccana paccayo.
Cattāro khandhā arūpino aññamaññaṁ nissayapaccayena paccayo.
その意味はすなわち、四つの名蘊は、俱生縁力(sahajātapavccya satti)と依止縁力(nissaya paccaya satti)によって、相互に支え合う、という事である。
名法は、相互に依存し合いながら、支え合うのである。
ちょうど緬甸の格言の様に:「島は陸地に依存して存在し、陸地もまた、島に依存して存在する」。
食べ物を食べる時、何度か多目に咀嚼してから飲み込めば、更に多くの食べ物の精華を吸収する事ができ、その味を味わう事ができる。
同様に、もし、一個の心識刹那と、その後に生起する所の、多くの心識刹那の触が皆、目標に透徹的に接触して、識と目標を連結するならば、受は、透徹的に、当該の目標である「精華」を体験する事ができる。
これが、なぜ、触の顕著である事に基づいて、受は、触の生起を因として、生起する事を教えるのか、という答えである。
しかしながら、触は単独では、生起しえない。
その他の心と心所(相応法)が、それを支援する時、その支援の下において、それは、これらの相応法と同時に、生起する事ができる。
まさに、「藤の蔓を一本掴んだならば、絡まった藤の全体もまた、同時に揺らすことができる」の格言の通りなのである。
触に言及している時、その他の相応法もまた、已に、その中に含まれているのだ、という事を忘れてはならない。
注意するべき要点:
同一の、一個の心識刹那に出現する所の、相応法の中において、もし、その中の一つの名法を、果とするならば、その他の名法は、因となる:
もし、二個、または三個の名法を果とするならば、その他の名法は、因となる。
この要点に注意を払う事。
その他の、名蘊の分析方法と、受蘊の分析方法は、同じである。
この後、名法は如何にして、その他の心識刹那の中の名法を、支援するのかを説明する。
智でもって、名法は相互に依存し合いながら、生起する、または受は、触等の名法に依存して、生起する事を識別し、知見する事。
言い換えれば、受蘊は、想、行と識蘊によって生起する。その時、それらは俱生縁、相互縁、依止縁等々(sahjāta-aññamañña-nissaya etc)によって、相互に支え合っているのであるが、智でもって、この点を知見した後、次に因果を識別する。
(識別:触(34-受=33)が生起するが故に、受蘊が生起する。
触(34-受=33)は因、受蘊は果)
(9-37につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>