般若の独り言~百聞は一見にしかず
今、毎日『禅修指南』を翻訳しているのですが、翻訳しながら、胸がドキドキします。
すごいですよね、《己自身の縁起を調べる》とは、
<無明であるが故に、結生(受胎)する>
所から始まって、母親の胎盤の中で成長する己自身の、その因果関係(受胎の前、出産後、過去世の輪廻、未来世の輪廻の予測も含む)を追尋していくのですから、まるで活劇を見ているみたいに、翻訳していても、つい、ドキドキします。
でも、これ、未だ、vipassanā ではないのですよね。
十二縁起の修行は、サマタ(止)と、vipassanā(観)の中間のレベル、と言われます。
Vipassanā になると、もう純粋に、色(身体、物質)と名(精神作用)の、無常・苦・無我(素粒子レベルでの刹那生滅/滅のみ/因果関係のみ)に絞って、識別する訳です(ラベリング瞑想/気づきの瞑想/マインドフルネス瞑想を vipassanā だと思っている人、要注意です)。
Ven. U Puññānanda 尊者が、vipassanā とは、「誰も見たことのない景色を見る事」と定義していましたけれど、12縁起でこれほどドキドキするのですから、vipassanā になったならば・・・想像できません(笑)。
翻訳だけでも、これほどドキドキ、毎日、楽しませて貰っている訳ですが・・・しかし、百聞は一見にしかず・・・ヨギたるもの、修習・修行した方が尚の事、お得の様です(なすべき翻訳が完了しましたら、来春より、修行生活に入りたいと、切に思います。)
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>