これまで何度も、ブログに書いていますが、私は日本生まれの台湾人です。
台湾が日本の植民地だった時代、祖母が父(自分の息子)を連れて、神戸に来て、定住したのが最初です。
親戚を頼って、父の仕事を、探しに来たのかも知れません。
祖母も父も母も、日本語、北京語共に話せませんでしたけれど(話せるのは台湾語だけ)、神戸で何とか、小さな商売をして暮らしていました。
次姉と違って、私は幼稚園には行きませんでしたが、幸いな事に、父が私を、華僑の子弟の通う中華学校(小中一貫校)に入れてくれました(私立ですから、学費が大変。5人の子供の内、4人がこの私立に通いました。この学校は、清朝末期の動乱で、日本に亡命してきた梁啓超の意見を容れて、開校されたものです)。
ここでの教育は、私に計り知れないほどの知恵を授けてくれました。
まず、北京語のスパルタ教育。
中学を卒業して、日本の高校へ進学するまでに、北京語をしっかりマスターし、中国と台湾の歴史も学んでおくというのが、中華学校の方針でしたから、小学低学年でも、毎日、国語(=北京語)の教科書を、一ページまる暗記(素読百遍が肝要)させられたものです(私が、日中バイリンガルのプロ通訳になれたのは、ひとえに、この学校のスパルタによります)。
中国大陸や台湾の地理の時間は、教科書がないので、先生が黒板に地図を書いて教えてくれました(1949年、中国大陸の共産党政府と台湾国民党政府が分裂したので、中立を保つため、地理系のものは、どちらの教科書も使わなかった。国語系のものは香港のものを使用)。
その時、私は、36の少数民族の住む雲南省に、好奇心マックス、興味が釘づけになったものです。
雲南省タイ族自治区猛海・・・滄瀾江・・・どうしても、この地名が気になる・・・小学三年生の頭で何を考えていたのか・・・でも、5,6年程前ですが、ここにパオ分院が出来たのを知って・・・自分の中で納得するものがありました。
私はデラシネ、百代の過客・・・どこにも永住の地はないけれど、青山ならどこにでもある・・・猛海は私の青山だ・・・子供心にそう思ったのですね・・・そこにパオ分院ができた・・・不思議不思議の物語です(ちなみに、雲南省を源流に流れる滄瀾江の、その下流が、緬甸のサルウィン河で、サルウィン河の岸辺にあるモーラミャインの町に、パオ本山があります)。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>