<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《行の縁によりて識》(Saṅkhārapaccayā viññāṇaṁ)
(行の生起によりて、果報識が生起する)
「無明によりて、行が生起する」と「行によりて、識が生起する」に関して、それは無明と行の自然的エネルギー(atthi bhāva)を言うのである。
無明と行の間には、非常に多くの数量の心識刹那または多くの心路過程が存在している。ある時には、無明と不善行は、同一の心識刹那または心路過程において、生起する事ができる。
しかし、無明と善果報識(たとえば、この生における、人の結生果報識)を引き起こす事のできる善行の間には、非常に多くの心路過程が挟まれる。「行によりて、果報識が生起する」の場合の、行と果報識の間には、一世または多くの世が挟まれる。
所以、果の生、住、と滅の時、因の生、住と滅は、二度と存在する事がない。無明と行の生、住、滅が二度と存在しない時に初めて、それは果を引き起こす。
故に、「無明と行によりて、それに合い見合う果が生起する」に言及する時、それは無明と行が、その果を引き起こすことができる所の、自然のエネルギーを指しているのである。
その自然的エネルギーとは、すなわち、無明、愛と取(たとえば、人間になりたいという欲)に取り囲まれた所の、善行法グループの業力である。
業を造(ナ)す事は、この自然的力の精緻、肝要である。
(善または不善の)行を造(ナ)す時、それは初めて果の因となる事ができる。それの生、住、滅の時が発生するかどうかは、重要ではない。
Kāmāvacarassa kusalassa kammassa katattā
upacitattā vipākaṁ cakkhuviññāṇaṁ uppannaṁ hoti.
ーー欲界善業を造(ナ)したが故に、善果報眼識が生起する。(《殊勝義註》)
《識》
輪廻を引き起こす所の行を造(ナ)したが故に、眼、耳、鼻、舌と意の六種類の果報識が生起する。
果報意識=果報識
果報識は、五識と果報意識(vipāka manoviññāṇa)である。果報意識は、離心路過程心(vīthimutta citta)に属する結生識、有分識、死亡識を含み、また、心路過程心(vīthi citta)に属する受領、推度と彼所縁果報識を含む。
五識、受領、推度と無因彼所縁は、善果報または不善果報で有り得る。
五識、受領、推度と彼所縁は、心路過程の心定法(citta niyāma、心の自然定法)と呼ばれるものによって生起する為、禅修行者はそれらが生起する所の心路過程に基づいて因果を識別しなければならない。
心路過程に基づいて識別する時、唯作心(kiriya citta)に属する五門転向、確定及び意門転向はと、速行の善と不善と呼ばれるものは、果報識と同一の心路過程の中において生起する。
(確定=votthapana、またvoṭṭhabbana)は、心路過程において生起したどの様な究極界をも取りこぼさない為に、唯作、善と不善心に対して、観(禅)の修習を行うのは、正しい。
ただし、因果関係を連貫させる時、行と果報識の間の因果関係をのみ識別するべきである。
六グループすべてを識別する。すなわち、色所縁グループから法所縁グループまでのすべてを、である。
(10-15につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>