<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《尊重すべき規則》
完全なる三輪転法教示(Teparivattadhamma desana、たとえば、《無我相經》)と、上に述べた註釈及び疏鈔の指示に基づけば(+観の修習とは)、過去、未来、現在、内、外等の、一切の行法(名色と因果)を観照するものであるが、ある種の人々は、以下の様に問うかもしれない:
一体、どの様な方法で、どの様な規則でもって、観禅の修習をすればよいのか、と。
《殊勝義註》(Aṭṭhasālinī)と《清浄道論》(第21章)の中の、「至出起観」に関連する篇章において、遵守すべき規則が、言及されている。
以下は《殊勝疏鈔》の註釈(+の一部)である:
Idhekacco āditova ajjhattaṁ pañcasu
khandhesu abhinivisati、abhiniivisitvā te aniccādito
passati、yasmā ・・・
(mahāva)
Evaṁ abhinivisitvā evameva vuṭṭhānakāle pana
ekappahārena pañcahi・・・
(《殊勝義註》)
Abhiniveso ti ca vipassanāya pubbabhāge
kattabbanāmarūpa paricchedo veditabbo・・・
(《大疏鈔》)
「識別」(abhinivesa)(+を完成させる)とは、観の修習を始める前、智でもって、名色を識別する名色分別智(+を完成しておかねばならない事を言う)。
例えば、先に色法を識別し、次に、観禅の修習をする。
すなわち、色識別(rūpe abhinivesa)である。
その他の識別は、これに基づいて、類推するべきである。
識別を観智の目標とする行法(すなわち、苦諦と集諦)は、「辦別」と呼ばれる。
出世間聖道は、以下の方式によって出起(出現)する:
(一)内(内行法)の観照から始める。
それは内(内行法)から出起する。
(二)内の観照から始める。
それは外(外行法)から出起する。
(三)外の観照から始める。
それは外から出起する。
(四)外の観照から始める。
それは内から出起する。
(五)色の観照から始める。
それは色から出起する。
(六)色の観照から始める。
それは名から出起する。
(七)名の観照から始める。
それは名から出起する。
(八)名の観照から始める。
それは色から出起する。
(九)五蘊から出起する。
(一)この教理において、ある種の禅修行者は、内五蘊の識別から始めて、内五蘊の三相を、順序良く繰り返し観照する。
しかしながら、内五蘊の観だけを修習しても「至出起観」(vuṭṭhānagāminī vipassanā、すなわち、行法から出起して、涅槃に趣く事)と道心路過程(magga vīthi)を生起させる事は、出来ないのである。
故に、他人の五蘊と、非有情の無執取行法を識別した後、彼は、順序良く、繰り返し、外行法の無常・苦・無我の三相を、観照しなければならない。
禅修行者は、ある時は、内行法の三相を観照し;
ある時は、外行法の三相を観照しなければならない。
この様に、内行法を観照する時、彼の観智が聖道と接する(その意はすなわち、聖道智が観智の末端で生起する)が、これを「内の観照から始めて、それは内から出起する」と言う。
至出起観は、行法出起(出現する)して、無為涅槃の「観心路過程」に趣き向う。これがすなわち、達頂観(sikhāpattā vipassanā)と呼ばれる所の行捨智、随順智と種姓智である。
(二)もう一つ別の方式:
禅修行者は、内の観照から始めて、内と外を交代させながら観じる。
彼がまさに、外を観じている時、観智が聖道と接する。
これを「内の観照から始めて、それは外から出起する」と言う。
(三、四)外の観照から始めて、それは外と内から出起する。
(第一・第二に、類似している。違いは、外の観照から始める事である。)
(五)(内外ともに名色の二者が存在する)また別の修行者は、先に色業処(すなわち、色法の識別)を修習し、その後に、四大界と 24所造色の三相を観照する(+場合がある)。
しかし、色法を観照するだけでは、「至出起観」を生起させる事は不可能である。
彼は、必ずや、名法の三相を、観照しなければならない。
こうしたことから、受、想、行、識を、「これは名法である」と識別した後、彼は、名法の無常・苦・無我の三相を、観照しなければならないのである。
彼が、まさに色法を観照している時、その観智が聖道智と接するが、これが「色の観照から始めて、それは色から出起する」である。
(六)もし、まさに名法を観照している時に、その観智が聖道と接したならば、これはすなわち、「色より始めて、それは名から出起する」である。
(七、八)第五と第六に類似している。違いはただ「名の観照から始める」である。
(九)「一切の集起法は、最終的には壊滅する」(Yaṁ kiñci samudaya dhammaṁ、sabbaṁ taṁ nirodha dhammaṁ)を観照した後、至出起観智が生起するが、これがすなわち、五蘊からの出起である。
これは大慧利観(tikkha vipassaka mahāpaññā)比丘の禅観である。
註釈では、容易に識別できる名色法から、観禅の修習を始めると言うが、これは、すでに五摂受の修習に成功した場合の言であって、それは、まさに、思惟智の修習に転換した者を言う。
疏鈔が示しているのは、識別した名色法に関して、思惟智を修習した後、禅修行者は、必ずや、種々の技巧を運用して、不明晰な名色法を明晰にさせ、その後に、それらの三相を観照しなければならない、という提言である。
それは以下の理由による:
1、色法を観照しただけでは、聖道を証悟する事はできない。
2、名法(四名蘊)を観照しただけでは、聖道を証悟する事はできない。
《注意するべき要点》
観禅を修習する時(順序良く、繰り返し)、以下の事を実践する事:
1、ある時は内を観ずる(内五蘊);
2、ある時は外を観ずる(外五蘊);
3、ある時は色を観ずる(四大界と所造色);
4、ある時は名を観ずる(四名蘊);
5、ある時は無常相を観ずる;
6、ある時は苦相を観ずる;
7、ある時は無我相を観ずる。
観禅の修習の方法に注意する事。
なんら、概念法と究極法を区別する事なく、心の欲するままに、まさに生起しつつある法を、観照するのではない。
言い換えれば、概念法は、観禅の目標ではないのであって、唯一、究極法のみが、観禅の目標なのである。
《三相》
Eko āditova aniccato saṅkhāre sammasti.
yasmā pana na aniccato sammasanamatteneva
vuṭṭhānaṁ hoti・・・
(一)智でもって、行法の生・滅の本質を識別した後、ある種の禅修行者は、観禅の修習として、それらを無常として観照することを始める。
しかし、無常だけを観じても、至出起観は生起しない。
彼は、必ずや、行法が生・滅の圧迫を受けている本質を識別して、それを苦として観じなければならないし;
また、それらは壊滅しない、という実質を有していない、という事を識別して、それらを、無我として観じなければならない。
こうしたことから、彼は必ずや、苦と無我を観照しなければならないのだ、と言える。
彼がまさに、行法を無常であると観照している時に、至出起観が生起したならば、彼はすなわち、「無常の観照から始めて、無常から出起した」のである。
(二)もし、彼がまさに苦を観照している時に至出起観が出起したのならば、それはすなわち、「無常の観照から始めて、苦から出起した」のである。
(三)もし、彼がまさに無我を観照している時に至出起観が出起したのならば、それはすなわち、「無常の観照から始めて、無我から出起した」のである。
苦の観照と、無我の観照から始めた出起もまた、斯くの如く類推する事。
上に述べた註釈によると、禅修行者は順序よく、繰り返し行法を観照しなければならない:
1、ある時は無常として;
2、ある時は苦として;
3、ある時は無我として。
《無我の光》
仏陀が世に出ても出なくても、無常相と苦相は、世間において顕現する;
しかしながら、もし、仏陀が世に出ないならば、無我相は、世間に顕現することはない。
智者であっても、たとえば、大神通を有するサラバンガ(Sarabhaṅga)菩薩であっても、法を無常と苦として、教える事は出来ても、無我を教示する事はできないのである。
もし、智者が行法を、無我として教示する事が出来るならば、その弟子または聴衆は、聖道果智を証悟することができる。
ただ、「一切知正等正覚者」(Sabbaññutā Sammāsambuddha)以外、無我相を教示するのは、どの様な人間、どの様な有情の能力の内にはないのである。注48。
故に、無我相は、顕著な相ではない(ことが分かる)。
仏陀は、無我相を(一)無常相と関連ずけて、または(二)苦相と関連ずけて、または(三)無常と苦相の二者と一緒に、纏めて教えるのである。
Nānādhātuyo vinibbhujitvā ghanavinibbhoge
kate anattalakkhaṇaṁ yathāvasarasato
upaṭṭhāti(Abhi-com、Vism)
ーーもし、究極法を知見するまで、一つひとつの色界(rūpa dhātu)と名界(nāma dhātu)を識別し、色密集と名密集を看破する事ができるならば、無我相(無我の光)は、禅修行者の智において、如実に顕現する。
色聚と名聚の中の究極界の相、作用、現起(現象)と近因を逐一識別する能力を有する時にのみ、色密集と名密集は看破することができる。
密集を看破した後で初めて、禅修行者は究極智を証得することができる;
と言うことは、この様にして初めて、無我の光は明るく、条件に合致して生起する事ができる;
無常・苦・無我を非常に明晰に観照している時にのみ、彼は聖道を証悟することができる。
こうしたことから、もし、人(=指導者)の教法に以下の概念が含まれている時、彼の教えは、正道から乖離しており、また、聖典に依拠したものでないことが分かる。色聚と名聚の分別が出来る時初めて、禅修行者は究極なる観智を証得することができる。
究極界を通して初めて、涅槃を証悟する事が出来る事に注意を払う事。
概念を通しては、涅槃を証悟する事はできないのである。
1、色聚と名聚を見る必要はない;
2、弟子(声聞)は色聚と名聚を見ることができない;
3、弟子は色聚と名聚の分別ができない;
4、弟子は、仏陀が教えた究極色と究極名を識別することができない;
5、一切知正等正覚者だけが、仏陀の教えた名色法を知見することができる。これは仏陀の能力の範囲にのみ、属するのである;
6、阿羅漢だけが、これらの名色法を知見することができる。
《聚思惟観法と個別法の観法》
Samūhagahaṇavasena pavattaṁ kalāpasammasanam.
Phassādi ekeka dhammagahaṇavasena
pavattā anupadadhammavipassanā.
二種類の観法がある。すなわち、理法観の聚思惟観法(kalāpa sammasana)と個別法の観法である。
名色法」、五蘊法、12処法、18界法、縁起法などに基づいて、名色または行法を二組、または五組、または12組、または18組などに分け、これらの組ごとに観を修習する。すなわち、聚思惟の理法観と呼ばれるものである。
(この観法においては、六処門と42身分の中の色法全体を『色」として取り、順序よく、繰り返しそれの三相を観照する。同様に、禅修行者は必ずや、過去、現在、未来、内と外全体の色法の三相を観照しなければならない。
名法に関しては、彼は一個の心識刹那の中の名法全体を「名」するか、またはそれらを受蘊、想蘊、行蘊と識蘊として観ずる。
過去、未来、現在、内、外等の観法もまた同様である。
色聚の中の一つひとつの色法(たとえば、地、水、火、風等)を対象に、逐一に観を修習し、また、逐一に、一個の心識刹那の中の一つひとつの名法(たとえば、触、受、想、思等)に対して観の修習をするのを、個別法観法と言う。
この二種類の観法の中で、《清浄道論》(第20章)では、観の修習を始めたばかりの禅修行者は、先に、聚思惟の理法観と呼ばれる方法から、修するべきだと指示している。
《縁起法》
《清浄道論》(第20章)では、12縁起支もまた観禅の目標であると言及している。
Sappaccayanāmarūpavasea tilakkhaṇaṁ
āropetvā vipassanā paṭipaṭiya aniccaṁ
dukkhaṁ anattā'ti sammasanto vicarati.
(Mūlapaṇṇāsa Aṭṭhakathā)
この《中部・根本50經篇》の註釈において、観智の段階に応じて、名色とそれらの因の三相を観照するべきであると指示している。
これらの指示に基づいて、智でもって、諸々の縁起支の因果関係を識別する時、禅修行者は、時には因の三相を識別しなければならないし;
時には果の三相を識別しなければならない。すなわち、順序良く繰り返し、それらの無常・苦・無我を観照するのである。
観禅の修習をする禅修行者は、以下の通りに実践する事:
1、ある時には内を観ずる。
2、ある時には外を観ずる。
この二者に関して、また:
3、ある時は色を観ずる;
4、ある時は名を観ずる;
5、ある時は因を観ずる;
6、ある時は果を観ずる;
7、ある時は無常を観ずる;
8、ある時には苦を観ずる;
9、ある時には無我を観ずる;
10、ある時には不浄を観ずる。
’Asubhā bhavetabbā rāgassa pahānāya.’
ーー「貪欲を取り除く為に、不浄を修習するべきである。」
(《自説語・メギヤ經》Meghiya Sutta。Udana Pāli)
は、《メギヤ》經の中において、仏陀が貪欲(rāga)を取り除く為に、不浄観を修習する様にと指示している;
彼は《勝利經》(Vijaya Sutta)の中において、貪欲を取り除くために不浄観を修習する様にと指示している。
三相の中で、不浄は苦随観を「取り巻いて」いるが、この観法は、現在五蘊において、運用されなければならない。
次に、完璧三輪転教法(たとえば、《無我相經》)の中において、仏陀はまた、過去の五蘊と未来の五蘊を観照する様にと指示している。これらの指示に基づけば、禅修行者は、現在の五蘊を観照するのと同じ様に、過去蘊と未来蘊もまた観照しなければならない事を知らねばならない。
故に、彼は以下の事を実践しなければならない:
11、ある時は過去を観ずる;
12、ある時は未来を観ずる(合計12項目)。
これらは、禅修行者が観禅の修習を実践するに当たり、先に知っておくべき要点である。
次に、彼は各種の異なった方法によって、名色を観照することができる、たとえば、五蘊法、12処法、18界法、12縁起法支等々である。
この『禅修指南』では、主に、名色法によって観の修習をする方法を説明した。
注48:《智慧の光》では、諸々の弟子は、仏陀の教えた無我相を、そのまま伝え、教えるのだと言う。
(13-3につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>