Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』13-3(402/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《観智と神通》

過去と未来を識別する件に関して、幾人かの大徳は、已に神通(特に宿命通)を証得している人だけが、過去と未来を識別することができる、と言う。

実際は、過去と未来を識別するには、二種類の方法がある。

すなわち、宿住随念智と観智である。

《相応部・蘊品》と註釈は、以下の様に言う:

’Ye hi keci、bhikkhave、samaṇā vā brāhmaṇā

vā anekavihitaṁ・・・(Saṁyutta) ’

Pubbenivāsanti na idaṁ abhiññāvasena

anussaraṇaṁ sandhāya vuttaṁ、vipassanāvasena

pana pubbenivāsaṁ ・・・

(Saṁyutta aṭṭhakathā)

「比丘たちよ。

この世において、ある種の沙門と婆羅門は智憶によって、多くの過去蘊を思い出すことができる;

この様に追憶する時、そうしたいのであれば、彼らは五取蘊または五蘊の一を思い出すこともできる。

もし、必要であれば、これらの沙門と婆羅門は、智憶によって、以下の事を想い出すこともできる;

1、どの色が過去において、生起した事があるか;

2、どの受が過去において、生起した事があるか;

3、どの想が過去において、生起した事があるか;

4、どの行が過去において、生起した事があるか;

5、どの識が過去において、生起した事があるか。」

(《相応部・所食經》Khajjanīya Sutta、saṁyutta Nikāya)。

仏陀は説明する時、「宿住」(pnbbenivaāsa、すなわち、過去蘊)という詞を使っているが、しかし、宿住随念智(pubbenivāsānussati abhiññā )でもって、過去の蘊を思い出す事を言っているのではなく、あれら沙門と婆羅門が、観智でもって過去蘊を思い出せる事を言っているのである。

こうしたことから、仏陀は示して言う:

「(彼らは)・・・智でもって、五取蘊または五取蘊の一を思い出すことができる。」

その違いは、神通によって過去蘊を思い出す時、宿住随念智は以下の事を知見することができる:

1、出世間法を含む五蘊。(その意味は、それは聖者、たとえば、過去仏の心中に生起した出世間法を知る事ができる。)

2、五取蘊(その意味は、出世間法を含まない。)

3、五蘊と関係のある族系、美しさ、食べ物の栄養、楽しさ、苦痛等。

4、各種の概念、たとえば、名称概念。

しかしながら、観智は、上に述べた第一、第三と第四項を知る事ができない。ただ、第二項、観禅の目標に属する五取蘊をのみ知る事ができる。

上に述べた経文が言及する所の、「智でもって色を思い出すのみ」(rūpaṁ yeva anussarati)とは、智でもって過去蘊を思い出した時、どの様な人も、有情または私などというものを思い出すのではなくて、究極法、それは智でもって、過去においてすでに滅尽した所の色蘊をのみ思い出すのを言う。

これは受についても同様である事に注意すること。(《相応部註》)

故に以下の事に注意しなければならない:禅修行者は観智でもって識別する事を通して、過去の五取蘊を知見することができる。ここにおいて、名色分別智と縁摂受智もまた観智の中に含まれる(+事も言い添えておく)。

一個の重要な条件

過去五蘊を思い出すことができる(+能力)は、過去因を識別する為には、非常に重要であると言える。

もし、人が過去五蘊を思い出す事ができないのであれば、彼は過去五蘊の一部分に属する所の過去因を識別することができない。

同様に、「過去果の生起は、更に遠い過去因による」及び「現在果の生起は、過去因による」に関して、彼は識別する方法を持たない事になる。

もし、人が、未来の五蘊を識別することができないのであれば、彼は「未来果の生起は、現在因または過去因が原因である」及び「更に遠い未来果が生起する原因は未来因による」というのも識別することができない。

これは、未来果と未来因は、未来五蘊の一部分に属するが故である。

過去の因果と未来の因果を追尋する一つの重要な条件は、臨終速行の目標、すなわち、業または業相または趣相を識別することができるかどうかである。

その目標が、果を引き起こす所の業が原因で出現するが故に、それは、引き起されんとする果、すでに引き起こされた果、またはまさに引き起こさんとしている果の業を追尋する主要な条件となるのである。

それは臨死速行が、相見合う所の六根門において生起する所の目標であり、特に、臨終の時に意門において出現する所の目標である。

先に六門(特に意門)が識別できていなければならない。

禅修行者は、そうであって初めて、相見合う根門に出現する所の目標を識別することができるのである。

その目標を明らかに識別する事ができて初めて、禅修行者は果を引き起こす所の業、及びその業を取り巻く無明、愛と取を識別することができるのである。

意門を識別する事ができて初めて、禅修行者は有分心の間に生起する所の心路過程を識別することができる。因に属する無明、愛、取、行と業はすなわち、これら心路過程に含まれており、それらは心路過程心の一部分なのである。

過去因を追尋する時、過去の臨終速行の目標を識別できる事は非常に重要である。その臨終速行の目標を識別する為には、過去世の臨終の時野有分心を識別できなければならない。この様に出来てこそ、以下の事を識別することができる;

1、意門に出現する臨終速行の目標。

2、有分心の間に出現する心路過程。臨終速行心路過程を含む。

3、その目標を出現せしめる所の業または因。

4、その業を取り巻く無明、愛と取。

同様に、もし、(+あなたに)未来世があるならば、今世の臨終速行の目標を識別できなければならない:そして、この事が出来る様になる為には、先に、今生の臨終の時の有分透明界(意門)を識別できなければならない。

唯一、この様にして初めて:臨終速行の目標、その目標が出現するに至る事になる(+因で)、かつ、果報を引き起こせんとする業、及び当該の業の助縁としての無明、愛、取を識別することができる。

同様に、若し、彼に、更に遠い未来の輪廻があるならば、諸々の未来世の間の因果関係(縁起)を識別している時、彼は、必ずや、未来世の臨終の時野、意門に出現する所の、臨終速行の目標を識別出来なければならない。その目標は、まさに新しい未来世を引き起こさんとしている所の業として出現する故に、目標を出現せしめる所の業は、未来の蘊(たとえば、第二未来世など)の因と縁となるのである。

その目標は、過去世の業が原因で、生起することができる(この業は、順後業、aparāpariya kamma と言う)。または今世で造(ナ)した業が原因で生起するが、これは死亡の前に造(ナ)した業も含まれるものである。

もし、人が、その目標に従って、業を追尋するならば、彼は非常に軽軽にそれを見つける事ができるし、また、その業を支援する所の無明、愛、取をも見つける事ができる。

この様に識別できる様になるためには、彼は臨終時の六門、特に意門を識別する事ができなくてはならない。

こうしたことから、、過去と未来蘊を識別する事は、ただ単に観禅の修習の時に、過去と未来蘊を観照する事の重要性以外に、それは、因果関係(縁起)と観を修習する時に、縁起を観照する為の重要な条件なのである(+ことが分かる)。

《易観者から始める観禅の修習》

易観(=観察しやすい)と明晰な名色から始めて、名色の観禅の修習をする原則について、『禅修指南』では、先に、今世の名色の観の修習から説明する。

まず、順序に従って定力を育成し、直前まで証得していた再考の定力まで上げておく。もし、第四禅を証得する事が出来るのでああれば、毎回、座禅・瞑想の時に、彼は先に第四禅に入らなければならない;すでの四界分別観を成就した純観行者に関しては、彼は、四界分別観を修習して、定力を育成し、光が極めて明るく輝く様にしておく。

ここでの教法は、先に色業処を教える事もあり、また、先に色法を観ずる方が容易である事もあって、色法を先に観じなければならない、とする。

まず、六処門と42身分の真実色法に対して:

1、一個の処門の中の54または44種類の色法を全体として見做す。

2、一個の身分の中の44種類の色法を全体として見做す。

3、六処門と42身分の中のすべての色法を全体として見做す。

(一)智によって、これらの色法の生・滅の本質を観ずる。それらの「生・滅」を目標に取り、それらを無常であると、何度も観ずる。

何度も繰り返して交代しながら、内と外を観ずる。

外を観ずる時は、先に近くを観じ、次に徐々に遠くを観ずる。最後は無辺世界まで観ずる。この様に重複して、繰り返し何度も観照する。

(二)智によってこれらの色法を「不断に生・滅の圧迫を受ける」本質を観じた後、それらの苦を何度も観ずる。内と外、及び近くから遠くまで、無辺世界に至るまで、繰り返し何度も観ずる。

(三)智によって、これらの色法を「壊滅しないという実質、または我を有していない」と観じた後、何度も繰り返して、それらを無我として観ずる。内と外、及び近くから遠くまで、無辺世界に至るまで、交代しながら観ずる。

註:非真実色法は観禅における三相の観照の対象ではない為、この段階においては、最早、非真実色法を観ずる事は止める事。

この様に連続して、繰り返し、内外の三相を観照する時、明晰に、極めて迅速な生・滅が見えていなければならないが、但し、中等の速度で、それらの無常・苦・無我を観ずる事。

色聚の生・滅を見ている時、それらを目標として三相を観照してはならない;

色聚の識別をした後に、智でもって、究極色の生・滅を観照するものであって、この点を実践できた時にのみ、究極色の三相を観照する事とする。

註:色法を観照している時、非有情の色法も観ずる。すなわち、無執取行である。

《名色の滅尽と見做す》

色聚は、最も小さい密集の概念である。実際は、構成概念(samūha paññatti)等の概念は、(+その時点では)未だ看破されていない。

概念は、真実的な存在ではない為、長時間それを見る事は出来ない。

禅修の時、宿世の波羅蜜がよい禅修行者は、色聚を見ることができる。

しかし、それを地、水、火、風、色、香、味、食素などの究極法として識別しないし(=できないし)、また究極智を証得してないならば、彼は、これらの色法の生・滅無常を観じようとしても、久しからずして、彼に色聚が見えなくなる。というのも、概念は、長時間、観智によって観照される事が出来ないが故に。

色聚が斯くの如くに消失した時、定力が未だ減退していなが故に、彼は白色または透明の物体を見ることができる。

彼の心は、静かになって、その目標に専注することができるが、ある種の禅修行者は、これこそが、色の滅尽である、と言う。

もし、精進力を少しばかり低減するならば、その静かな、目標に専注する心は、有分に落ちる可能性がある。

当時の目標を知らないが故に(=見失ったが故に)、彼は、己自身すでに空を知見したと思い、有分に落ちたのを、名の滅尽であると言う。

注意するべきは、パーリ経典、註釈、疏鈔の中において、言及されている様に、以下の状況においては、聖道は証悟することはできないのである:

1、内五蘊観照するだけの観禅の修習。

2、外五蘊観照するだけの観禅の修習。

3、ただ色法のみを観ずる。

4、ただ名法のみを観ずる。

5、三遍知でもって縁起を知見していない。

6、三遍知でもって、すべての五取蘊または名色法を知見していない。

もう一つ、注意するべき点は、もし、再度、当該の透明体の中の四界と虚空界を識別する時、彼は久しからずして、色聚を見ることができるであろう、という点である。

《名法の観照

もし、無常の観照に対して、已に満足を感じたならば、これらの名法が生・滅の圧迫を受けている本質を「苦、苦」と観じてもよい。

この様に繰り返して、多数回観照する。

もし、苦相の観照にも満足したならば、これらの名法が永恒の、壊滅しない実質を持っていない、または我ではないということを「無我、無我」と観じてもよい。

すべての内外の六所縁グループの善と不善速行心路過程を観照する。

この様に名方を観照する時、下記の様に、心路過程全体を観照しなければならない(たとえば、名色業処表に示した如く)。

1、色所縁を目標として取った、眼門と意門心路過程。

2、声所縁を目標として取った、耳門と意門心路過程。

3、香所縁を目標として取った、鼻門と意門心路過程。

4、味所縁を目標として取った、舌門と意門心路過程。

5、触所縁を目標として取った、身門と意門心路過程。

それらを繰り返し重複して多数回、観照する。

 《禅修行者が止行者の場合》

もし、禅修行者が止行者である場合、已に証得した所のジャーナ心路過程名法の観照から、観禅の修習を始めるのが、彼にとってもよいと言える。

たとえば、先に初禅に入り、その後に、初禅から出定して、初禅心路過程名方の三相を順序よく、繰り返し観照する。

第二禅などの心路過程名法の観方もまた同様である。

すべての、己自身がすでに証得した所のジャーナの名法を観照し、それらの三相を順序良く、何度も繰り返し観照する。

もし、これらに対して、已に満足を覚えたならば、六所縁グループの名法の三相を観照することができる。たとえば、色所縁を目標に取る眼門と意門心路過程である。

《主に好きな相から観照する》

Evaṁ saṅkhāra anattato passantassa

diṭṭhisamugghāṭanaṁ nāma hoti.・・・

(Vism)

禅修行者は、熟練して力を有するまで、行法の三相を観照しなければならない。この様に修習するならば、もし、その中の一個の随観智(anupassanā ñāṇa)が、残り二個の随観智の、親依止縁力の支援を得られたならば、それは即刻、鋭利で、強大で、清浄になる。

当該の随観智が鋭利になり、強大で清浄である時にのみ、それは初めて、煩悩を取り除くことができる。

無常随観智と苦随観智の親依止力の支援の下、無我随観智が鋭利になり、強大で清浄となる。すでに、何度となく、徹底的に、無常随観智と苦随観智でもって、行法の観照に取り組んでいる禅修行者は、次には、繰り返し、徹底的に、無我随観智によって、行法を観照するべきである。

無我随観智を、観の修習の主とする。

この様であれば、無我随観智は、成熟し、鋭利になり、強大で清浄となり、その為に行法への邪見を「取り除くかまたは断じ除く」事が出来る。

一切の邪見は、皆我見を根基(=根深い基礎)としているが、無我随観智は、直接我見と対立しているが故に、無我随観智は、邪見を取り除くことができる。

次に、苦随観智と無我随観智の親依止力の支援の下、無常随観智は、鋭利になり、強大で清浄になる。すでに何度も徹底的に、苦随観智と無我随観智でもって、行法を観照した禅修行者は、次には、繰り返し徹底的に、無常随観智でもって行法を観照しなければならない。

無常随観智でもって観の修習をするのを主とする。

この様にすれば、無常随観智は成熟し、鋭利になり、強大で清浄になるが故に、行法への慢見を「取り除くかまたは断じ除く」事が出来る。

もし、人が行法を、たとえば、「これは常である、これは永恒である」(idaṁ niccaṁ、idaṁ dhuvaṁ)の様に、常として執取するならば、彼は婆迦梵天(Baka brahma)の様に自大になる。 

次に、無常随観智と無我随観智の、親依止力の支援の下、苦随観智は鋭利になり、強大で清浄になる。

已に繰り返し、徹底的に無常随観智と無我随観智でもって、行法の観照を実践してきた禅修行者は、次には、繰り返し徹底的に、苦随観智でもって、行法の観照をしなければならない。

苦随観智による、観の修習を主とする。

この様にすれば、苦随観智は成熟して、鋭利になり、強大で清浄になる。

その為に、行法を「私の、私の」として執着する所の愛欲(taṇhānikantai)は、尽滅する。

行法に対して、楽想(sukha saññā、行法を楽と見做す)のある時にのみ、行法を「私の、私の」として執着する愛見(taṇhā gāha)は生起する。

苦随観智は、愛見と直接対立する為に、苦随観智は、愛見を止息することができる。(《清浄道論》:《大疏鈔》)。

こうしたことから、三相を徹底的に観照した後、己自身が比較的好ましいと思う相を優先して、相当長い時間を費やして、それを観照する。

もし、選んだ随観智が強大でない時、その他の二相を観照する。

しかしながら、この時、煩悩はただ暫定的(tadaṅga)に「取り除かれまたは断じ除かれる」だけであり、唯一、聖道智のみが、煩悩を正断(samuccheda)し、徹底的に余す所なく、断じ除く事ができる。

聖道を証悟する為に、禅修行者は必ずや、観智を成熟せしめるために、大いに尽力しなければならない。

現在世(addhā paccupanna)

この一生に対して、(+すなわち)結生心から死亡心の間において、已に生起した、まさに生起しつつある、将に生起せんとしている名色法は、繰り返し多数回順序よく以下の様に観照されなければならない。

1、色法の三相のみである。

2、名法の三相のみである。

一つひとつの随観によって、それらを多数回、繰り返し、観照する。

ある時は内を観じ、ある時は外を観じ、ある時は無常を観じ、ある時は苦を観じ、ある時は無我を観じる事。

(13-4につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>