Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『禅修指南』13-6(427/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《40種類の思惟法》

《無碍解道》、《清浄道論》(第20章)が、思惟相(lakkhaṇa sammasana)の段階における、40種類の思惟法に言及しているが、暗記に便利な様に、大清浄寺(Mahāvisuddhārāma)の住職が、その書《究極有色分別》(paramatthasarūpabhedanī)において書かれた、幾首の偈は、無常相の思惟の法を10個に;苦相は25個、無我相は5個に、列している。

以下は、これらの偈に基づいて、三グループに分けた三相の思惟法の説明である。

無常相は十

paṁ aniccaṁ palokaṁ calaṁ pabhaṅgu 

addhuvaṁ Viparināmāsārakaṁ vibhavaṁ 

maccu saṅkhataṁ.

(一)無常(aniccato)

Aniccantikatāya、ādiantavantatāya ca 

aniccato. (Vism)

Aniccantikatāyāti accantikatābhāvato、

asassatatāyāti attho.・・・

(Mahāṭīka)。

【名色には両端がある。始まりの端は「生起」であり、末端は「壊滅」である。それらは生起端と壊滅端と呼ばれる。

名色は、常(sassata)ではなく、それらは壊滅の末端を超える事は出来ない。

壊滅の末端を超える事が出来ないが故に、また、それらには、一個の生起の端と、一個の壊滅の端があるが故に、それらは無常の法である。

五蘊法によって、色、受、想、行と識を観照する。

上に述べた定義を思惟した後、色(受、想、行、識)を無常として観ずる。

ここにおいて、「生起の始端を超えることができない」とは、名色の生起の前においては存在しておらず、生起する為に待機するとか、準備するとかの相も存在しない。

また、壊滅の後、それらは一か所に集積するという事もない。

それらは、ただ、発生する二つの不存在(すなわち、生起の前と壊滅の後の、不存在がある)の間に、生、住、滅の刹那があるだけである。

生起端と壊滅端があるが故に、また、この両端を超越する事が出来ないが故に、名色は無常と呼ばれる:こうしたことから】無常として観ずる、すなわち、常または永恒はない、のである。

(二)毀(palokato)

Byādhi jarāmaraṇehi palijjanatāya palokato.(Vism)

病老死によって毀壊されるが故に、毀として観ずる。

(三)動(calato)

Byādhi jarāmaraṇehi ceva lābhālābhādīhi・・・(Vism)

【愛と恨の基因は、世間法である。たとえば、得と失の如くに。

これら世間法は、心をして、動揺せしめるが、それは愛と恨の如くである。

名色は、病老死する事と得失などが原因で、世間法であり、動揺し、不安定である。】が故に、動揺または不安定として観ずる。

(四)壊(pabhaṅguto)

Upakkamena ceva sarasena ca pabhaṅgu・・・(Vism)。

【それらは、自力か、または他力か、または自性を因として、混乱の中において壊滅する相を持つ。】壊=混乱の中において壊滅する相を擁する。

(五)不恒(addhuvato)

Sabbāvatthannipātitāya、thirabhāvassa ca ・・・(Vism)

【落性を有する、すなわち、生命の如何なる時期においても、死ぬという事がある。たとえ青年であるとか、または楽しい幼少期であっても。これは正に、果実が、小さな粒の時から始まって、如何なる時期においても、落下する可能性がある事と同じである;

たとえ落下しなくても(すなわち、死亡しなくても)、それには実質がなく、堅固性がない。】不恒として観ずる=安定、堅固性がない。

(六)変易法(vipariṇāmadhammato)

Jarāya ceva maraṇena cāti dvedhā・・・(Vism)

【老(または住)と死(壊滅)という二種類の変易性があるが故に】それらは変易法である。(その意味は、それらは生時から変じて、住時(+を迎え)または老い(+を迎え)、また壊滅時に変化するか、または死する)。

(七)不実(asārakato)

Dubbalatāya、pheggu viya sukhabhañjanīyatāya・・・(Vism)

【力が弱い為に、たとえば、白木質の様に、破壊を受けるが故に】それは不実であり、堅固な実質がない。

(八)無有(vibhavato)

Vobhavasambhūtatāya ca vibhavato.(Vism)

【生起の後、即刻壊滅し、増長、拡大または増益がなく、また、無有愛(vibhava taṇhā)と無有見(vibhava diṭṭhi)を基とした、徹底的な毀滅性の故に】それらは無有である=それらは徹底的な毀滅性である。

(九)死法(maraṇadhammato=maccu)

Maraṇapakatitāya maraṇadhammato.(Vism)

【死(=壊滅)性が有るが故に】それは死法であり、すなわち、死性を有しているのである(=壊滅性の具備)。

(十)有為(saṅkhatato)

Hetupaccayehi abhisaṅkhatatāya saṅkhātato.(Vism)

【因(hetu、janaka)と助縁が和合することによって造られる】故に、それらは有為である=不断に因と縁とによって造られる。

直接色法を引き起こす所の因は業であり、因(hetu、janaka)である。

煩悩輪転(無明、愛、取)は、過去の業を支援する助縁である。

煩悩輪転は縁力(たとえば、親依止)によって、善業を支援するが、また、縁力(たとえば、親依止)と因(たとえば、俱生)によって、不善業を支援する。

次に、心、時節と食もまた、色法を支援する助縁である。

心、時節と食は、些かの心生、時節生、食生色法を引き起し、また些かの色法を支援するものの、しかし、これは業力が業生色を引き起すのとは、方法が異なる。

心は、俱生などの縁力でもって、心生色を支援する;

時節は、親依止縁力などでもって、時節生色を支援する;

食は、食縁力などでもって、食生色を支援する。

それらは業力ではない為、因(janaka)ではなく、ただの助縁である。 

果報名法の因(hetu、janaka)は業である。

煩悩輪転、すなわち、無明、愛と取は、上に述べた色法と同じで(助縁で)ある。

一切の善、不善と無記としての、現在因の依処、助縁、触などは、助縁である事に、注意する事。

上に述べた説明に基づいて、色(受、想、行、識)を、「無常」または「毀」等々として、観ずる。

以上が、無常想の 10種類の思惟法である。

苦相は25

Dukkhañca rogāghaṁ gaṇdaṁ、sallā bādha

upaddavaṁ ・・・。

 (一)苦(dukkhato)

Upādavayapaṭipīḷanatāya、dukkhavatthutāya ca dukkhato(Vism)

Uppādavapaṭipīḷanatāyāti uppādena、vayena  ca pati

pati khaṇe khaṇe・・・(Mahāṭīkā)。

【名色は、一つひとつの刹那生滅の逼迫性によって「虐め」があり、名色を擁する者、また名色自体が、不断に生・滅の逼迫を受けるが故に:

苦苦(すなわち、苦受)であり、変易苦(すなわち、楽受、その意味は、住時は楽であり、壊滅時は、苦である)と行苦(すなわち、捨受+受の名色を除く)の依処であり、または生死輪廻苦の依処である】苦=卑劣と苦。

行苦:

三界の一切の行法は、皆、行苦と呼ぶことができる。

苦受と楽受は、それぞれ、苦苦と変易苦と呼ばれる為に、ここでは、行苦を下記の様に定義する:

捨受に一切の三地行法を加えて、受を除く(すなわち、一切の三界行法から、苦受と楽受を除く)。

一切の三地名色行法は、皆行苦と呼ばれる。

というのも、それらを生起せしめる所の、有為苦(saṅkhato dukkha)が存在する為と、不断に生・滅の圧迫を受けるが故に。

(二)病(rogato)

Paccayayāpanīyatāya、rogamūlatāya ca rogato.(Vism)

【縁によって維持を得る、これは病の根本である】それらは病=痛苦の病である。】

【その意味は、名色は、身・心の一切の疾病の発生する基地であるが故に、それらは慢性病の様である。】

(三)悪(aghato)

Vigarahaṇīyatāya、avaḍḍhiāvahanatāya・・・(Vism)

仏陀と、その他の聖者が呵責する所の、不善法であり、損失を招き、悪の発生する基地である】故に、それらは悪=損失または無益である。

(四)瘡(gaṇḍato)

Dukkhatāsūlayogitāya、kilesāsucipaggharanatāya、・・・(Vism)

【苦(すなわち、苦苦、変易苦と行苦)と相応して、目標または相応法の縁によって、常に煩悩(たとえば、貪欲)が流れるという不浄を引き起す。

その前にはなかったのに、突然に生起する所の膨張;

住時(老)の成熟と、壊滅時の破壊】の為に、それらは瘡(癰)である。

 「目標または、相応法の縁によりて、常流煩悩(たとえば、貪欲)の不浄が引き起される。」とは、後生貪欲は、前生貪欲を目標にとって生起する事を言うのである;

煩悩(たとえば、貪欲)は、心と心所が、煩悩を齎す目標を縁に取る事によって生起する。それらは名色から流れ出て来る「膿」であり、それはまさに、瘡から流れ出る膿の様である。

(五)箭(sallato)

Pīlājanakatāya、antotudanatāya、dunṇīharanīyatāya ca sallato(Vism)

【それらは、生・滅の逼迫を齎すが故に;

身体内に刺された苦受の様に、行法は生起する時に、内において、生・滅でもって刺すが故に;

聖道で抜く事を除けば、名色行法は、「鉤針」の様に、取り出しにくい】故に、それらは箭である=刺す箭である。

(六)疾(ābadhato)

Aseribhāvajanakatāya、ābādhapadaṭṭhanatāya ca

ābādhato.(Vism)

【(一)重病を罹患した病人の様に、己自身で歩く事も動く事もできず、他人の援助を必要とているのと同じ様に、諸蘊は皆、己自身独自に生起することができず、その他(の縁)に依存する:

(二)それらは一切の疾病の因であるが故に。】それらは疾である=頑なる疾病。

(七)禍(upaddavato)

Aviditānaṁ yeva vipulānaṁ ・・・(Vism)

【それらは、多くの、予測できない過患、たとえば、懲罰、老い、病、死、悪道への堕落等を齎すが故に;

それらは一切の過患の基地であるが故に】それらは禍である。

(八)畏怖(bhayato)

sabbabhayānaṁ ākaratāya、dukkhavūpasamasaṅkhātassa.

・・・(Vism)。

【(一)諸蘊は危険な「陥穽」である。今生と来世の危険。

(二)それらは苦の寂滅と言われる至上解脱涅槃と対抗するが故に、それらは畏怖であり、無楽の大畏怖である。】

(九)難(ītito)

Anekabyasanāvahanatāya ītito.(Vism)

【諸蘊が種々の不幸を招くが故に】危難である。

(十)災難(upasaggato)

Anekehi anatthehi anubadhatāya。dosūpasaṭṭhatāya、・・・(Vism)

【(一)種々の不利に随追される。たとえば、外部では親族を失うなど、内部では疾病(+に見舞われる);

(二)疾病と夜叉鬼神が齎す痛苦の如くに忍び難い】故にそれらは災難である。

(11)非保護所(atāṇato)

Atāyanatāya ceva、alabbhaneyykhematāya ca atāṇato.(Vism)

【(一)それらが生起した後、壊滅しない様に保護する事が無い。というのも、諸蘊は生起した後、必ず壊滅するが故に;

(二)保護するという事も出来なければ、安全を与える事もできない】故に、それらは非保護所である。

(12)非避難所(aleṇato)

Allīyituṁ anarahatāya、allīnānampi ca leṇakiccākāritāyā aleṇato.(Vism)

【(一)苦難を恐れて、避難を求める者に対して、諸蘊は、彼らの避難所として値しない:

(二)それらは、この身(蘊)に依存している者が、苦難に面している時に、その苦を完全に取り除くことができないが故に】それらは避難所で有り得ない。

(13)非帰依処(asaraṇato)

Nissitānaṁ bhayasārakattābhavena asaraṇato(Vism)

【苦難を恐れて、依止を探し求める者に対して、それらは彼らの畏怖を取り除くことができない。たとえば、老病死などなど】故にそれらは帰依処とはなり得ない。

(14)殺戮者(vadhakato)

Mittamukhasapatto viya vissāsaghātitāya vadhakato.(Vism)

【それらは敵でありながら、笑顔の友人の様に偽装して、それらに近い親しい人を殺すことができる】故に、それらは殺戮者(vadhaṁ)である。時々刻々、(俗諦の)人、天神、梵天神、有情を殺しており、彼らが、生、住、壊滅の三刹那において、超越できない様にせしめている。

それらに近しい存在、また「色・受・想・行・識は楽であり、苦ではない」と思う人を殺害するが故に、諸蘊は、親しい人を殺害する凶手である。有情は諸蘊に対して、「それは私のものである」(etaṁ mama)という邪見を持つが故に、確実に不幸である。これは、苦諦と呼ばれる所の蘊が、集諦と呼ばれる所の愛貪(taṇhā lobha)によって生起する事を言うのである。また、親しい者を殺害するが如くに、諸蘊はそれと親しい人を殺害する。故に、「近親者の殺害者」と呼ばれるのである。

(15)悪の根(aghamūlato)

Aghahetutāya aghamūlato.(Vism)

Aghassapāpassahetutā aghahetutā(Mahāṭīkā)

【それらは悪の基因であるが故に】それらは悪の根である。

(16)患(ādīnavato)

Pavattidukkhatāya、dukkhassa ca ādhinavatāya ādīnavato

・・・(Vism)。

Pavattidukkhatāyāti bhavapavattidukkhabhāvato.・・・

(Mahāṭīkā) 

【(一)五蘊の無常などの諸法は、「有転起」(bhava pavatti)と呼ばれる。これらの法の存在は、また、諸蘊の過患と言われる。仏陀は、以下の様に言う:「比丘たちよ。この無常苦変易法(anicca dukkha vipariṇāma dhamma)は五取蘊の過患である。」というのも、「有転起輪転苦」が存在するが故に、五蘊の無常などの諸法が存在する;

(二)五蘊(苦諦)の過患があるが故に、それはすなわち、無常苦変易法である】が故に、それらは悪染の過患である。(これは、無常苦変易法を具備する所の、諸法を指して言うのである。)

【また、困窮者は過患である。五蘊は、あの帰依のない困窮者の如くである】が故に、それらは無帰依の困窮者である。(これは、生起した後、壊滅時に到達した時、それらは何等の依止も無く、壊滅を免れない。)(17)有漏(sāsavato)

Āsavapadaṭṭhānatāya sāsavato.(Vism)

Āsavānaṁ ārammaṇādinā paccayabhāvo āsavapdaṭṭhānatā.(Mahāṭīkā)

【名色の基因としての煩悩輪転(無明、愛、取)は、有漏法(āsava dhamma)である。これらの有漏法の生起は、五蘊(名色)が所縁縁力(ārammaṇa paccaya satti)等の縁力で支援するのが原因である。五蘊(名色)は有漏法の近因であるが故に】それらは有漏であり、すなわち、四有漏法の増長である。

(18)魔食(mārāmisato)

Maccumārakilesamāranaṁ āmisabhūtatāya mārāmisato.(Vism)

Maccumārassa dhiṭṭhānabhāvena、kilesamārassa・・・(Mahāṭīkā)。

【魔には五種類ある、すなわち、天子魔、煩悩魔、蘊魔、死魔と行作魔(devaputta māra、kilesamāra、khandha māra、maccumāra、abhisaṅkhāramāra)である。

これらの中で、《清浄道論》は、煩悩魔と死魔について言及している。疏鈔は、すべての五魔は、皆含まれると言う。

諸蘊は死魔(死亡)が発生する地である。(その意味は、蘊が無ければ、死亡もない、という事である。諸蘊は煩悩輪転(無明、愛と取)の依止の縁であり、それが増長する縁でもある。

蘊は蘊の因であるが故に、蘊は蘊の食べ物でもある。

こうしたことから、蘊は蘊が依止して生起する所の因であり、また、蘊を増長せしめる因でもある。

新しい生命を引き起す事の出来る善と不善行は行作魔であり、これもまた五蘊の中に含まれる。

蘊は行作を因にして生起する:

行作は、また、蘊に依存して生起する。

行作はまた、善行と不善行の名蘊でもある。

天子魔に関しては、それを「増上慢食」(adhimāna āmisa)として理解しなければならない。それはすなわち、「この一切の法は、すべて私のものである」(etaṁ mama=mametaṁ)と思う事である。

五蘊は、天子、煩悩、蘊、死、行作の五魔が「食べたり、嚼したり、用いたり」するが故に】それらは五魔の食べ物である。

(19~21)生法、老法、病法

(jātidhammato、jarādhammato、byādhidhammato)

Jātiarābyādhimaraṇapakatitāya jātijarābyādhimaraṇa dhammato.

(Vism)

【諸蘊には、生(生時)、老(住時)、病(と死=壊滅時)があるが故に】それらは生老病の法である。(死法はすでに、無常相の中に列記されている)。

(22~24)愁法、悲法、悩法

(sokadhammato、paridevadhamato、upāyāsadhammato)

Sokaparidevaupāyāsahetutāya sokaparidevaupāyāsa dhammato.

【諸蘊は愁悲悩の生起の因であるが故に】それらは愁、悲、悩法である。

(25)雑染法(saṁkilesikdhammato)

Taṇhā-diṭṭhi-duccrita-saṁkilesānaṁ visayadhammatāya saṁkilesikadhammato.(Vism)。

Saṁkilesattayaggahaṇena tadekaṭṭhānaṁ dasannaṁ・・・(Mahāṭīkā)。

【煩悩の所縁としての諸蘊は、心路過程または有情をして、三雑染法(すなわち、愛雑染、見雑染、悪行雑染)によって、汚染せしめるが故に】それらは雑染法=愛、見、悪行の三雑染の増長または十煩悩=である。

上に述べた説明を詳細に閲読し、その後に、名色を五蘊に分けて、一つひとつの思惟法ごとに、一つひとつの蘊を、「苦、苦」;「病、病」等と観照する。 

 (16-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi> 

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>