「他人の目の中のゴミを問題にするより、あなた自身の目の中の丸太を、取り除く事に尽力しなさい」
は、キリストの有名な教えです。
己自身には、大いなる偏見と先入主がある。
そんなあなたに、他人を批判する資格などない、という教えです。
でも私、この教え、なんだか変だなぁ、と長い間、思っていました。
勿論、私は視野が狭く、ものごとを正しくとらえていない場合が多い、という事は認めますが、たとえば、力の強い者が弱い者を虐めたなら、前者を批判するのは当たり前ではないでしょうか?(弱い他人を虐めるのは、虐める側の人間に、解決不能の苦悩があるが故、それに配慮する事、というのも一面の真理ですが、今は横に置く。)
それとも、目に丸太を持つ私には、他者を批判する資格は、全くないのでしょうか?
ところが、先日、丸太には、続きがあるのだと誰かが、教えてくれました。
それは
「あなたの丸太が取れたなら、他人の目の中のゴミを取れ」です。
まず己から正す(凡夫が、完璧にそうするのは、少々、難しいかもしれないですが)。
そして、自分に恥じない範囲で、不正には、声を挙げてもよい(怒りではなく慈でもって。)
日本に、<お互いに決して批判をし合わない>キリスト教団がある、と耳にした事があり、それがずっと心に引っかかっていました。
宗教が教条になると恐ろしい・・・ここにも、その一例がありました。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>