<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
《縁起第一法》
’Nāyaṁ、bhikkhave、kāyo ・・・daṭṭabbaṁ’
’Tatra kho、bhikkhave、sutavā ・・・nirodho hoti.’
(Saṁyutta Nikāya)
「比丘たちよ。
これら色身と名心(一切の色法と名法)は、あなたのものではなく、(その意味は、それはあなたの「我(私)」ではない。というのも、それは「無我」であるが故に)、また他人(それは他人の「我」ではない)に属している訳でもない。これらの色心と名心は、過去の古い業によって生じた法であり、善業と悪業によって構成されており、善思と不善思がそれらの基因である。それらは受の依処である。
比丘たちよ。
聖教聞(āgama suta、理論上の智慧)と証得聞(adhigama suta、実修上の智慧)の聖声聞弟子は、縁起の観に長じている;
もし、この因があるならば、この果は、すなわち、生起する。
この因の生起により、この果が生起する。
もし、この因がないならば、この果は生起しない。
この因が滅尽したならば、この果は滅尽する。
縁起は以下の様なものである:
『無明が生起するが故に、行が生起する;
行が生起するが故に、(果報)識が生起する・・・
この様に、これは苦があり、楽の無い集である。』
『無明が滅尽(阿羅漢道によって断じ除かれた)するが故に、行が滅尽し、(果報)識が滅尽し・・・この様に、これは苦があり、楽のない集の滅尽である』」
上に述べた教法に基づけば、禅修行者は縁起第一法によって、観禅、すなわち、集のみを観じ、その後に滅のみを観じ、次に集と滅の二者を観ずる観禅を修習するべきである。
随観集法(samudayadhammānupassī)
縁起第一法に基づいて、因果関係を識別した後、次に生起を観照する。
たとえば:
1、無明が生起するが故に、行が生起する;
2、行が生起するが故に、結生識が生起する;
行が生起するが故に、有分識が生起する;
行が生起するが故に、死亡識が生起する;
行が生起するが故に、眼識が生起する;などなど。
内と外を観ずる。三世の間の因果関係を連貫させる方法によって、最も遠い過去世から、最も後ろの一個の未来世までを観ずる。
すでに縁起第一法に修習に熟練した禅修行者は、上記の修習に困難はない。
随観滅法(vayadhammānupassī)
その智が、最後の一個の未来世の縁起(たとえば、「無明が生起するが故に、行が生起する・・・)に対して明晰な(+認識の有る)禅修行者は、次に、未来において、阿羅漢道を所得する時の、無生の滅を観照する。
たとえば、阿羅漢道が引き起す所の「一切の煩悩(たとえば、無明)が滅尽して、二度と生起しないが故に、一切の果(たとえば、行)は滅尽して、二度と生起しない。」(+を観照する)。
次に彼は、以下の様に観照をしなければならない:
1、無明が滅尽するが故に、行が滅尽する;
2、行が滅尽するが故に、結生識が滅尽する;
行が滅尽するが故に、有分識が滅尽する;
行が滅尽するが故に、死亡識が滅尽する;
行が滅尽するが故に、眼識が滅尽する、などなど。
三時の内外の滅尽のみ観ずる。
随観集滅法(samudayavayadhamānupssī)
観智でもって、生・滅の二者を観照する。たとえば
「無明が生起するが故に、行が生起する;
無明が滅尽するが故に、行が滅尽する・・・」
次に下記の如くに観照する:
1、無明が生起するが故に、行が生起する;
無明が滅尽するが故に、行が滅尽する;
無明(生・滅)無常、行(生・滅)無常。
2、行が生起するが故に、結生識が生起する;
行が滅尽するが故に、結生識が滅尽する;
行(生・滅)無常、結生識(生・滅)無常。
3、行が生起するが故に、有分識が生起する;
行が滅尽するが故に、有分識が滅尽する;
行(生・滅)無常、有分識(生・滅)無常。
4、行が生起するが故に、眼識が生起する;
行が滅尽するが故に、眼識が滅尽する;
行(生・滅)無常、眼識(生・滅)無常。
縁起第一法に基づいて、因果関係を識別する事に熟練した禅修行者は、上に述べた例を参考に、この程度まで修習することができる。
彼は、引き続き、「有」まで、この様に観照しなければならない。すなわち、業有と生有。
縁起第一法において示した通り、六所縁グループすべてに波及する所の縁起支は、皆、六グループすべてを観照しなければならない。
過去、未来、現在の三時の内外を観照する。
三世を連貫させる方式を用いて、最も遠い過去世から、最後の一個の未来世の三相を観照する。
少なくとも、上に述べた様に、徹底的一回は観照する事。
《生滅観の進展》
Santativasena hi rūpārūpadhama udayato、
vayato ca manasikarontassa ・・・.
一世において、結生から死亡までの名色法は、現在世法(addhāna paccuppanna dhamma)である。
一個の心路過程の中の、名法は、現在相続法(santati paccuppanna dhamma)と呼ばれる。
一粒の色聚の火界(時節)、四、または五または六代の色法を製造する過程は、「一時節所造色法過程」と呼ばれる。
色聚の中の食素が食生食素の支援の下、それは、四、五、または六代の色法の過程を製造することができる。
この過程を「一食所造色法過程」と言う。
四等起色の中の一個の時節、または一個の食素が造る色法の過程は、現在相続法と呼ばれる。
生、住、滅の三小刹那に分ける所の、一個の心識刹那の中で発生する名法、及び、生、住、滅の三小刹那の中で発生する色法は、現在刹那(khaṇa paccuppanna)の名色法、と呼ばれる。
先に、禅修行者は必ず、現在相続名色の生・滅を観照しなければならない。徐々に、観の修習による智が強固で、鋭利、明晰になった時、連続して、間が不断なる行法の生・滅が、はっきりと、現在刹那に至るまで、その智に顕現する様になる。
始め、禅修行者は、縁生滅法(paccayato udayabaya dassana)を修習して、それを見る。
たとえば、
「無明が生起するが故に、色が生起する;
無明が滅尽するが故に、色が滅尽する。」
その後、彼は諸々の因を横に置いて(すなわち「無明が生起するが故に、色が生起する;無明が滅尽するが故に、色が滅尽する」を観ない)、観智でもって、生・滅の本質を有する所の因蘊と果蘊を観照する。
言い換えれば、禅修行者は先に、縁生滅法によって、「因が生起するが故に、果が生起する;因が滅尽するが故に、果が滅尽する」を観照するのである。
次に、これらの蘊の刹那生滅を観照する。
たとえば、
無明が生起するが故に、色が生起する;=見縁生法
無明が滅尽するが故に、色が滅尽する;=見縁生法
無明(生・滅)無常=見刹那生滅。
色(生・滅)無常=見刹那生滅。
もし、過去の如くに多数回観照したならば、禅修行者の智は、鋭利、明晰に変化する。そして、一つひとつの刹那の中において、生・滅する所の名色法もまた、その智において明晰に顕現するのである。
この様に明晰である時、生滅随観智の「初観智」(taruṇa vipassanā ñāṇa)と呼ばれる智を証得することが出来る。故に、禅修行者は「初観者」(āraddha vipassaka)と呼ばれるのである。(《大疏鈔》)
《10種類の随煩悩》(upakkillesa、また染とも)
見縁生滅と見刹那生滅の二種類の方法でもって、徹底的に、初観を証得するまで、観の修習を実践し、また過去、未来、現在、内、外などの五取蘊を観じた後には、(+禅修行者において)10種類の観の随煩悩は自然的に発生する。
(一)観の光明(Vipassanobhāso)
Vipassanobhāso vipassanacitta samuṭṭitaṁ、 sasantatipatitaṁ utusamuṭṭhānañ bhāsuraṁ rūpaṁ.(《大疏鈔》)
この光明は、「観の修習の心」が引き起す所の心生色である。
この心生色は、新しい時節生色を製造することのできる火界を具有している。これらの心生色と時節生色は、内部で生起するが、外部のあるのは、唯一時節生色聚のみである。
もし、これらの内部から生起する所の心生色聚を識別するならば、八種類の色法を見ることができる。内在する時節生色聚もまた、この八種類の色法であり、この八種類の色法の中の色所縁(色彩)は、非常に明るいものである。
光が、外で生起する事ができる理由は、時節が製造する色聚は外部に向かって拡散するからであり、これらの色聚もまた八種類の色法である。
禅修行者は必ずこの八種類の色法の、無常・苦・無我の三相を観照しなければならない。
こうしたことから、光明に対して観の修習をしたいと思う禅修行者は、どの様な修行をすればよいのであろうか?
彼は必ず、光の四界から色聚が見える様でなければならない。その後に、これらの色聚を識別するのである。
内光明は、八個の色法を具有する心生色聚と時節生色聚であり、外光明は、八個の色法を具有する時節生色聚である。
智でもって、この八個の色法の生・滅を「無常」として観ずる;
それらを、不断に生・滅の圧迫を受けているのを「苦」であると観ずる;
それらを壊れない実質を持たない、または我ではないと見るのは「無我」である。
《アビダンマ》によると、一切の光は、皆、一団の色聚に過ぎないのであり、これらの色聚の中の色所縁の明るさなのである、と言う。
諸々の色聚が一か所に集まって生起する時、それらの色所縁は、連合する。
故に、禅修行者は初め、それらが連続して不断の様に見える。が、しかし、それらの四界を識別してみれば、それらは色聚に変化して、更に識別すれば、それらは八種類の色法を具備する色聚であることが分かる。
この段階においては、この八種類の色法の生・滅を、無常・苦・無我の三相として観照しなければならない。
これが、光明を克服する方法である。
(二)智(ñāṇa)
Ñāṇanti vipassanāñāṇaṁ、 tassa kira rūpārūpa dhamma・・・
この時、観智は非常に鋭利になっている。
どれほどの鋭利さか?
名色の無常・苦・無我の三相を観照する時、観智は電気の様に、障礙物の無いが如くに、迅速に進行する。
無常・苦・無我の三相を観ずる智は、非常に鋭利に、力あるもの、清浄になる。
(三)喜(pīti)
Tassa kira tasmiṁ samaye khuddakāpīti、khaṇikā pīti・・・.
この時、五種類の喜あ、禅修行者の智の中に生起する。
小喜(khuddaka pīti)は、体毛を立たせる程の喜である。
刹那喜(khaṇika pīti)は、異なった時間に、電光石火の様にして出現する喜である。
継起喜(okkantikā pīti)は、一陣一陣の波の様に、不断に生起する喜である。
勇躍喜(ubbegā pīti)は、身体を浮かせる事が出来る程の喜である。
遍満喜(pharanā pīti)は、勝心生色が全身に遍満する為に生起する喜である。
禅修行者は、まるで油の中に浸された綿花の様に感じがして、全身が勝心生色に満たされる。観の修習心と相応する喜が全身を遍満する為、禅修行者はその喜が、全身に拡散するのを感じる事がある。
(四)軽安(passaddhi)
観智と相応する軽安心所である。
Tassa kira tasmiṁ samaye rattitthāne vā divātthāne・・・
honti.
六対の「双対心所」(yugala cetasika)がある:
身軽安と心軽安;
身軽快性と心軽快性;
身柔軟性と心柔軟性;
身適業性と心適業性;
身練達性と心練達性;
身正直性と心正直性。
この時、この六対の心所は非常に力のあるものとなる。
経典の中では、それらの中で、軽安が最も顕著であると言及している。
(五)観の楽(sukha)
Tassa kira tasmiṁ sanaye sakāla sariraṁ・・・。
この時、殊勝な楽が全身を遍満する。
観の修習によって、引き起された心生色は、勝心生色(paṇīta cittaja rūpa)と呼ばれる。この勝心生色が全身を遍満する時、これは観智に相応する楽と言う。
(六)勝解(adhimokkha)は堅信
Adhimokkhoti saddhā. vipassanā sampayuttoyeva hissa
citta・・・.
これは、観智と相応する信である。
彼は已に、名色の因果の存在を肯定しており、已に因と果の二者が皆、無常・苦・無我の本質を有している事を肯定している;
過去、現在、未来、内、外の諸々の行法の存在も肯定している。
智が顕著になる時、その信もまた、非常に堅固になる。故に、観智と相応する信は、非常に堅固なものになるのである。
(七)策励(paggaha)
これは、禅修行の精進力である。正精進道支である。
Vipassanā sampayuttameva hissa asithilaṁ・・・.
この時、極めて強い精進が観智と相応する。
この精進支は、その他の相応名法が倒れない様に支え、それはゆるからず、きつからずの身精進(kāyika vīriya)と、心所精進(cetasika vīriya)となって、観の修習のおいて、目標から抜け出さない(+という作用を起す)。
禅修の期間、時には怠惰になるものであろうか?
禅修行者は、禅修を止めて、以下の様に言う:
「禅修に意義はない」
禅修を実践したくないという念は、起きないであろうか?
この時、その様な考えが起きない様に、精進は、その他の相応する名法の極めて強力な支援となって、それらが禅修の目標から退出しない様にせしめるのである。
(八)現起(現象)(upaṭṭhāna)は念
Vipassanā sampayuttāyena hissa supatthitā ・・・.
これは、観智と相応する念である。
この念は、城門の柱の様に、一本ごとに、10フィートの高さを持ち、10フィートの深さで、埋められている柱は、四方から吹く風で動揺する事がない;同様に念は、観の修習心を平静にして、目標、すなわち、名色因果を観照せしめるのである(これは名色因果行法の無常・苦・無我の三相を観照する段階の事である)。
それは、一座の高山の様でもあり、暴風雨もまたそれを動揺させることができない;
同様に、念もまた、観の修習心を保持して、平静に目標を観照する。
So yaṁ yaṁ thānaṁ āvajjaati samannāharati・・・.
天眼通を証している人は、もし、彼がその他の世界を観てるならば、彼はその他の一切の衆生を見ることができる。
同様に、この段階において、禅修行者がどの様な目標、または名、または色、または因果、または過去法、または未来法、または内、または外を観照しているにしても、それらの目標は、非常に迅速にその観智の上に顕現する。
その時、念は極めて強大である。
(九)捨(upekkhā)
Upekkhāti vipassananupekkhā ceva āvajjanupekkhā ca.
諸々の捨の中において、その中の二個は、観捨(vipassanā upekkhā)と転向捨(āvajjana upekkhā)である。
Tasmiṁ hissa samaye sabbasankhāresu majjhatta bhūtā vipassananupekkhāpi ・・・.
転向捨とは、観智速行の前に生起する意門転向であり、それは転向捨と呼ばれる。
というのも、それは、捨相と相応する名法であるが故に。
観捨は、観智と相応する所の中捨性心所(tatramajjhatatā)である。
もし、その時、観智が喜俱智相応である時、すなわち、34の名法がある時、中捨性心所はその中の一であり、それは心の平捨を保ちながら、目標を観照することができる。
この時、それは極めて強大である。
どれほど強大であるか?
それは、帝釈天の繰り出す雷の様である。
それは、中捨的に、行法の無常・苦・無我相を、観照することができ、何等の欲求も憂慮もしない。
行法の無常・苦・無我相が非常に明晰に、観智に顕現するが故に、行法に対して、何等の欲求も執着も生じない。
たとえば、ある人が、己の愛する人の過患を見る時、彼に対して平捨を保つ事が出来ないであろうか?
同様に、禅修行者が行法の無常過患、苦過患と無我過患を見る時、行法に対して、中捨と無憂無執着の能力を保持するのである。
(10)欲(nikanti)は観智への執着
Evaṁ obhāsādipatimanditāya hissa vipassanāya
ālayaṁ kurumānā ・・・.
ある時には、上に述べた九法(すなわち、観の光明から、観の捨まで)の観智に対して、好ましい気持ちが生じる事がある。
それはすなわち、欲である。
それは非常に微細であり、故に、通常、禅修行者はそれを察知することができない。
観智が非常に強大になる時、禅修行者は喜ばないだろうか?
喜ぶのである。
観の修習の智は、意門転向と七個の智相応速行の心路過程に生起する為、それは、上に述べた九法すべてに相応する可能性がある。
禅修行者は、必ず、それらの無常・苦・無我の三相を観照しなければならない。
この様に観すれば、喜と軽安が最も顕著な名法に対する執取を断じ除く事が出来る。
若し、欲がいまだ生起するならば、欲が最も顕著な「貪速行意門心路過程」の無常・苦・無我の三相を観照する。
これが、それを克服する方法である。
この様に修習して、観智を非常に鋭利なものに変化せしめる。
この10種類の観の随煩悩は、以下の四種類の人間には発生しない:
1、已に聖道聖果を証得した聖声聞弟子、及び已に強力な観智(たとえば、厭離随観智)を証得した禅修行者。(《大疏鈔》)
2、法を間違えて修習した人。たとえば、戒律が腐敗している、定力がない、また邪慧を修習する人。
3、ある種の人々にとって、彼らはまさに、観禅を修習しているのではあるが、それに対して失望しており、故に、観禅の修習から撤退しているか、または放棄している。
4、戒行を具足しているものの、怠惰で観禅の修習に取り組まない人。
反対に、それらは必ずや、正確な戒・定・慧を修習している正行者(sammāpatipannaka)、すなわち、継続して、勇猛果敢に慧の精進をする初観者(āraddha vipassaka)において、発生する。
10種類の観の随煩悩の中で、第二項の智から第九項の捨までは、雑染法であるとは、限らない。
智、喜、軽安、楽、勝解、策励、現起(現象)、捨の八法は、観修習の智と相応する心所行法であり、それは観智相応の心識刹那の中の34名法(心と心所)の一部分である。
凡夫と学者にとって、この八法は、ただ「観善速行」であって、雑染とは言えない。
しかしながら、これらの法を目標に取った後、もし、禅修行者が「これらの法は私のものである;これらの法は私である;これらの法は私の『私』または『霊魂』(etaṁ mama、esohamasmi、eso me attā)であるとし、たとえば、「私の智、私の喜・・・」とするならば、愛、慢、邪見(taṇhā、māna、diṭṭhi)が生起する。これらの愛、慢、邪見とはすなわち、雑染法である。
もし、人が、智、喜などを、どれか一個の道果智であるとするならば、彼はすなわち、観禅の道を乖離している事になる。
というのも、彼は、この非真実道果の法に楽(+を覚え)、それらを、真実の道果であると考え、根本業処、すなわち、観禅を放棄するが故に。
(14-1につづく)
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版 中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>