南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『禅修指南』13-11(470/520)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

《縁起第一法》

’Nāyaṁ、bhikkhave、kāyo ・・・daṭṭabbaṁ’

’Tatra kho、bhikkhave、sutavā ・・・nirodho hoti.’

(Saṁyutta Nikāya)

「比丘たちよ。

これら色身と名心(一切の色法と名法)は、あなたのものではなく、(その意味は、それはあなたの「我(私)」ではない。というのも、それは「無我」であるが故に)、また他人(それは他人の「我」ではない)に属している訳でもない。これらの色心と名心は、過去の古い業によって生じた法であり、善業と悪業によって構成されており、善思と不善思がそれらの基因である。それらは受の依処である。

比丘たちよ。

聖教聞(āgama suta、理論上の智慧)と証得聞(adhigama suta、実修上の智慧)の聖声聞弟子は、縁起の観に長じている;

もし、この因があるならば、この果は、すなわち、生起する。

この因の生起により、この果が生起する。

もし、この因がないならば、この果は生起しない。

この因が滅尽したならば、この果は滅尽する。

縁起は以下の様なものである:

『無明が生起するが故に、行が生起する;

行が生起するが故に、(果報)識が生起する・・・

この様に、これは苦があり、楽の無い集である。』

『無明が滅尽(阿羅漢道によって断じ除かれた)するが故に、行が滅尽し、(果報)識が滅尽し・・・この様に、これは苦があり、楽のない集の滅尽である』」

上に述べた教法に基づけば、禅修行者は縁起第一法によって、観禅、すなわち、集のみを観じ、その後に滅のみを観じ、次に集と滅の二者を観ずる観禅を修習するべきである。

随観集法(samudayadhammānupassī)

縁起第一法に基づいて、因果関係を識別した後、次に生起を観照する。

たとえば:

1、無明が生起するが故に、行が生起する;

2、行が生起するが故に、結生識が生起する;

行が生起するが故に、有分識が生起する;

行が生起するが故に、死亡識が生起する;

行が生起するが故に、眼識が生起する;などなど。

内と外を観ずる。三世の間の因果関係を連貫させる方法によって、最も遠い過去世から、最も後ろの一個の未来世までを観ずる。

すでに縁起第一法に修習に熟練した禅修行者は、上記の修習に困難はない。

随観滅法(vayadhammānupassī)

その智が、最後の一個の未来世の縁起(たとえば、「無明が生起するが故に、行が生起する・・・)に対して明晰な(+認識の有る)禅修行者は、次に、未来において、阿羅漢道を所得する時の、無生の滅を観照する。

たとえば、阿羅漢道が引き起す所の「一切の煩悩(たとえば、無明)が滅尽して、二度と生起しないが故に、一切の果(たとえば、行)は滅尽して、二度と生起しない。」(+を観照する)。

次に彼は、以下の様に観照をしなければならない:

1、無明が滅尽するが故に、行が滅尽する;

2、行が滅尽するが故に、結生識が滅尽する;

行が滅尽するが故に、有分識が滅尽する;

行が滅尽するが故に、死亡識が滅尽する;

行が滅尽するが故に、眼識が滅尽する、などなど。

三時の内外の滅尽のみ観ずる。

随観集滅法(samudayavayadhamānupssī)

観智でもって、生・滅の二者を観照する。たとえば

「無明が生起するが故に、行が生起する;

無明が滅尽するが故に、行が滅尽する・・・」

次に下記の如くに観照する:

1、無明が生起するが故に、行が生起する;

無明が滅尽するが故に、行が滅尽する;

無明(生・滅)無常、行(生・滅)無常。

2、行が生起するが故に、結生識が生起する;

行が滅尽するが故に、結生識が滅尽する;

行(生・滅)無常、結生識(生・滅)無常。

3、行が生起するが故に、有分識が生起する;

行が滅尽するが故に、有分識が滅尽する;

行(生・滅)無常、有分識(生・滅)無常。

4、行が生起するが故に、眼識が生起する;

行が滅尽するが故に、眼識が滅尽する;

行(生・滅)無常、眼識(生・滅)無常。

縁起第一法に基づいて、因果関係を識別する事に熟練した禅修行者は、上に述べた例を参考に、この程度まで修習することができる。

彼は、引き続き、「有」まで、この様に観照しなければならない。すなわち、業有と生有。

縁起第一法において示した通り、六所縁グループすべてに波及する所の縁起支は、皆、六グループすべてを観照しなければならない。

過去、未来、現在の三時の内外を観照する。

三世を連貫させる方式を用いて、最も遠い過去世から、最後の一個の未来世の三相を観照する。

少なくとも、上に述べた様に、徹底的一回は観照する事。

《生滅観の進展》

Santativasena hi rūpārūpadhama udayato、

vayato ca manasikarontassa ・・・.

一世において、結生から死亡までの名色法は、現在世法(addhāna paccuppanna dhamma)である。

一個の心路過程の中の、名法は、現在相続法(santati paccuppanna dhamma)と呼ばれる。

一粒の色聚の火界(時節)、四、または五または六代の色法を製造する過程は、「一時節所造色法過程」と呼ばれる。

色聚の中の食素が食生食素の支援の下、それは、四、五、または六代の色法の過程を製造することができる。

この過程を「一食所造色法過程」と言う。

四等起色の中の一個の時節、または一個の食素が造る色法の過程は、現在相続法と呼ばれる。

生、住、滅の三小刹那に分ける所の、一個の心識刹那の中で発生する名法、及び、生、住、滅の三小刹那の中で発生する色法は、現在刹那(khaṇa paccuppanna)の名色法、と呼ばれる。

先に、禅修行者は必ず、現在相続名色の生・滅を観照しなければならない。徐々に、観の修習による智が強固で、鋭利、明晰になった時、連続して、間が不断なる行法の生・滅が、はっきりと、現在刹那に至るまで、その智に顕現する様になる。

始め、禅修行者は、縁生滅法(paccayato udayabaya dassana)を修習して、それを見る。

たとえば、

「無明が生起するが故に、色が生起する;

無明が滅尽するが故に、色が滅尽する。」

その後、彼は諸々の因を横に置いて(すなわち「無明が生起するが故に、色が生起する;無明が滅尽するが故に、色が滅尽する」を観ない)、観智でもって、生・滅の本質を有する所の因蘊と果蘊を観照する。

言い換えれば、禅修行者は先に、縁生滅法によって、「因が生起するが故に、果が生起する;因が滅尽するが故に、果が滅尽する」を観照するのである。

次に、これらの蘊の刹那生滅を観照する。

たとえば、

無明が生起するが故に、色が生起する;=見縁生法

 無明が滅尽するが故に、色が滅尽する;=見縁生法

無明(生・滅)無常=見刹那生滅。

色(生・滅)無常=見刹那生滅。

もし、過去の如くに多数回観照したならば、禅修行者の智は、鋭利、明晰に変化する。そして、一つひとつの刹那の中において、生・滅する所の名色法もまた、その智において明晰に顕現するのである。

この様に明晰である時、生滅随観智の「初観智」(taruṇa vipassanā  ñāṇa)と呼ばれる智を証得することが出来る。故に、禅修行者は「初観者」(āraddha vipassaka)と呼ばれるのである。(《大疏鈔》)

《10種類の随煩悩》(upakkillesa、また染とも)

見縁生滅と見刹那生滅の二種類の方法でもって、徹底的に、初観を証得するまで、観の修習を実践し、また過去、未来、現在、内、外などの五取蘊を観じた後には、(+禅修行者において)10種類の観の随煩悩は自然的に発生する。

(一)観の光明(Vipassanobhāso)

Vipassanobhāso vipassanacitta samuṭṭitaṁ、 sasantatipatitaṁ utusamuṭṭhānañ bhāsuraṁ rūpaṁ.(《大疏鈔》)

この光明は、「観の修習の心」が引き起す所の心生色である。

この心生色は、新しい時節生色を製造することのできる火界を具有している。これらの心生色と時節生色は、内部で生起するが、外部のあるのは、唯一時節生色聚のみである。

もし、これらの内部から生起する所の心生色聚を識別するならば、八種類の色法を見ることができる。内在する時節生色聚もまた、この八種類の色法であり、この八種類の色法の中の色所縁(色彩)は、非常に明るいものである。

光が、外で生起する事ができる理由は、時節が製造する色聚は外部に向かって拡散するからであり、これらの色聚もまた八種類の色法である。

禅修行者は必ずこの八種類の色法の、無常・苦・無我の三相を観照しなければならない。

こうしたことから、光明に対して観の修習をしたいと思う禅修行者は、どの様な修行をすればよいのであろうか?

彼は必ず、光の四界から色聚が見える様でなければならない。その後に、これらの色聚を識別するのである。

内光明は、八個の色法を具有する心生色聚と時節生色聚であり、外光明は、八個の色法を具有する時節生色聚である。

智でもって、この八個の色法の生・滅を「無常」として観ずる;

それらを、不断に生・滅の圧迫を受けているのを「苦」であると観ずる;

それらを壊れない実質を持たない、または我ではないと見るのは「無我」である。

《アビダンマ》によると、一切の光は、皆、一団の色聚に過ぎないのであり、これらの色聚の中の色所縁の明るさなのである、と言う。

諸々の色聚が一か所に集まって生起する時、それらの色所縁は、連合する。

故に、禅修行者は初め、それらが連続して不断の様に見える。が、しかし、それらの四界を識別してみれば、それらは色聚に変化して、更に識別すれば、それらは八種類の色法を具備する色聚であることが分かる。

この段階においては、この八種類の色法の生・滅を、無常・苦・無我の三相として観照しなければならない。

これが、光明を克服する方法である。

(二)智(ñāṇa)

Ñāṇanti vipassanāñāṇaṁ、 tassa kira rūpārūpa dhamma・・・

この時、観智は非常に鋭利になっている。

どれほどの鋭利さか?

名色の無常・苦・無我の三相を観照する時、観智は電気の様に、障礙物の無いが如くに、迅速に進行する。

無常・苦・無我の三相を観ずる智は、非常に鋭利に、力あるもの、清浄になる。

(三)喜(pīti)

Tassa kira tasmiṁ samaye khuddakāpīti、khaṇikā pīti・・・.

この時、五種類の喜あ、禅修行者の智の中に生起する。

小喜(khuddaka pīti)は、体毛を立たせる程の喜である。

刹那喜(khaṇika pīti)は、異なった時間に、電光石火の様にして出現する喜である。

継起喜(okkantikā pīti)は、一陣一陣の波の様に、不断に生起する喜である。

勇躍喜(ubbegā pīti)は、身体を浮かせる事が出来る程の喜である。

遍満喜(pharanā pīti)は、勝心生色が全身に遍満する為に生起する喜である。

禅修行者は、まるで油の中に浸された綿花の様に感じがして、全身が勝心生色に満たされる。観の修習心と相応する喜が全身を遍満する為、禅修行者はその喜が、全身に拡散するのを感じる事がある。

(四)軽安(passaddhi)

観智と相応する軽安心所である。

Tassa kira tasmiṁ samaye rattitthāne vā divātthāne・・・

honti.

六対の「双対心所」(yugala cetasika)がある:

身軽安と心軽安;

身軽快性と心軽快性;

身柔軟性と心柔軟性;

身適業性と心適業性;

身練達性と心練達性;

身正直性と心正直性。

この時、この六対の心所は非常に力のあるものとなる。

経典の中では、それらの中で、軽安が最も顕著であると言及している。

(五)観の楽(sukha)

Tassa kira tasmiṁ sanaye sakāla sariraṁ・・・。

この時、殊勝な楽が全身を遍満する。

観の修習によって、引き起された心生色は、勝心生色(paṇīta cittaja rūpa)と呼ばれる。この勝心生色が全身を遍満する時、これは観智に相応する楽と言う。

(六)勝解(adhimokkha)は堅信

Adhimokkhoti saddhā. vipassanā  sampayuttoyeva hissa

citta・・・.

これは、観智と相応する信である。

彼は已に、名色の因果の存在を肯定しており、已に因と果の二者が皆、無常・苦・無我の本質を有している事を肯定している;

過去、現在、未来、内、外の諸々の行法の存在も肯定している。

智が顕著になる時、その信もまた、非常に堅固になる。故に、観智と相応する信は、非常に堅固なものになるのである。

(七)策励(paggaha)

これは、禅修行の精進力である。正精進道支である。

Vipassanā sampayuttameva hissa asithilaṁ・・・.

 この時、極めて強い精進が観智と相応する。

この精進支は、その他の相応名法が倒れない様に支え、それはゆるからず、きつからずの身精進(kāyika vīriya)と、心所精進(cetasika vīriya)となって、観の修習のおいて、目標から抜け出さない(+という作用を起す)。

禅修の期間、時には怠惰になるものであろうか?

禅修行者は、禅修を止めて、以下の様に言う:

「禅修に意義はない」

禅修を実践したくないという念は、起きないであろうか?

この時、その様な考えが起きない様に、精進は、その他の相応する名法の極めて強力な支援となって、それらが禅修の目標から退出しない様にせしめるのである。

(八)現起(現象)(upaṭṭhāna)は念

Vipassanā sampayuttāyena hissa supatthitā ・・・.

これは、観智と相応する念である。

この念は、城門の柱の様に、一本ごとに、10フィートの高さを持ち、10フィートの深さで、埋められている柱は、四方から吹く風で動揺する事がない;同様に念は、観の修習心を平静にして、目標、すなわち、名色因果を観照せしめるのである(これは名色因果行法の無常・苦・無我の三相を観照する段階の事である)。

それは、一座の高山の様でもあり、暴風雨もまたそれを動揺させることができない;

同様に、念もまた、観の修習心を保持して、平静に目標を観照する。

So yaṁ yaṁ thānaṁ āvajjaati samannāharati・・・.

天眼通を証している人は、もし、彼がその他の世界を観てるならば、彼はその他の一切の衆生を見ることができる。

同様に、この段階において、禅修行者がどの様な目標、または名、または色、または因果、または過去法、または未来法、または内、または外を観照しているにしても、それらの目標は、非常に迅速にその観智の上に顕現する。

その時、念は極めて強大である。

(九)捨(upekkhā)

Upekkhāti vipassananupekkhā  ceva āvajjanupekkhā ca.

諸々の捨の中において、その中の二個は、観捨(vipassanā upekkhā)と転向捨(āvajjana upekkhā)である。

Tasmiṁ hissa samaye sabbasankhāresu majjhatta bhūtā vipassananupekkhāpi ・・・.

転向捨とは、観智速行の前に生起する意門転向であり、それは転向捨と呼ばれる。

というのも、それは、捨相と相応する名法であるが故に。

観捨は、観智と相応する所の中捨性心所(tatramajjhatatā)である。

もし、その時、観智が喜俱智相応である時、すなわち、34の名法がある時、中捨性心所はその中の一であり、それは心の平捨を保ちながら、目標を観照することができる。

この時、それは極めて強大である。

どれほど強大であるか?

それは、帝釈天の繰り出す雷の様である。

それは、中捨的に、行法の無常・苦・無我相を、観照することができ、何等の欲求も憂慮もしない。

行法の無常・苦・無我相が非常に明晰に、観智に顕現するが故に、行法に対して、何等の欲求も執着も生じない。

たとえば、ある人が、己の愛する人の過患を見る時、彼に対して平捨を保つ事が出来ないであろうか?

同様に、禅修行者が行法の無常過患、苦過患と無我過患を見る時、行法に対して、中捨と無憂無執着の能力を保持するのである。

(10)欲(nikanti)は観智への執着

Evaṁ obhāsādipatimanditāya hissa vipassanāya

ālayaṁ kurumānā ・・・.

ある時には、上に述べた九法(すなわち、観の光明から、観の捨まで)の観智に対して、好ましい気持ちが生じる事がある。

それはすなわち、欲である。

それは非常に微細であり、故に、通常、禅修行者はそれを察知することができない。

観智が非常に強大になる時、禅修行者は喜ばないだろうか?

喜ぶのである。

観の修習の智は、意門転向と七個の智相応速行の心路過程に生起する為、それは、上に述べた九法すべてに相応する可能性がある。

禅修行者は、必ず、それらの無常・苦・無我の三相を観照しなければならない。

この様に観すれば、喜と軽安が最も顕著な名法に対する執取を断じ除く事が出来る。

若し、欲がいまだ生起するならば、欲が最も顕著な「貪速行意門心路過程」の無常・苦・無我の三相を観照する。

これが、それを克服する方法である。

この様に修習して、観智を非常に鋭利なものに変化せしめる。

この10種類の観の随煩悩は、以下の四種類の人間には発生しない:

1、已に聖道聖果を証得した聖声聞弟子、及び已に強力な観智(たとえば、厭離随観智)を証得した禅修行者。(《大疏鈔》)

2、法を間違えて修習した人。たとえば、戒律が腐敗している、定力がない、また邪慧を修習する人。

3、ある種の人々にとって、彼らはまさに、観禅を修習しているのではあるが、それに対して失望しており、故に、観禅の修習から撤退しているか、または放棄している。

4、戒行を具足しているものの、怠惰で観禅の修習に取り組まない人。 

 反対に、それらは必ずや、正確な戒・定・慧を修習している正行者(sammāpatipannaka)、すなわち、継続して、勇猛果敢に慧の精進をする初観者(āraddha vipassaka)において、発生する。

10種類の観の随煩悩の中で、第二項の智から第九項の捨までは、雑染法であるとは、限らない。

智、喜、軽安、楽、勝解、策励、現起(現象)、捨の八法は、観修習の智と相応する心所行法であり、それは観智相応の心識刹那の中の34名法(心と心所)の一部分である。

凡夫と学者にとって、この八法は、ただ「観善速行」であって、雑染とは言えない。

しかしながら、これらの法を目標に取った後、もし、禅修行者が「これらの法は私のものである;これらの法は私である;これらの法は私の『私』または『霊魂』(etaṁ mama、esohamasmi、eso me attā)であるとし、たとえば、「私の智、私の喜・・・」とするならば、愛、慢、邪見(taṇhā、māna、diṭṭhi)が生起する。これらの愛、慢、邪見とはすなわち、雑染法である。

もし、人が、智、喜などを、どれか一個の道果智であるとするならば、彼はすなわち、観禅の道を乖離している事になる。

というのも、彼は、この非真実道果の法に楽(+を覚え)、それらを、真実の道果であると考え、根本業処、すなわち、観禅を放棄するが故に。

(14-1につづく)

 (+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<本雅難陀尊者(Ven. U Puññānanda)著 『禅修指南』Meditation Guide 第二版  中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>