南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-36(195/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4 ジャーナ名法の相、作用、現起(現象)と近因

今私は、安般似相を目標に取る所のジャーナ名法の相、作用、現起(現象)と近因について解説する。

12.4.1 心(citta)

心とは、四種類の究極法の一種である。

先に心を研究するのは、仏教において、究極法を分析する中心点をば、己自身自ら体験する事においているからであって、また、心は、体験の主要な要因であり、安般似相等の目標(所縁)への識知である(+が故に)。

パーリ語のcitta(心)の源は、自動動詞citi(認知;識知)である。

諸々の論師たちは、三つの方面において、citta(心)を解説する:造作者、工具、活動・・・である。

造作者としては、心は、目標者を識知する(ārammaṇaṁ cintetī ti cittaṁ)。

工具としては、心と相応する所の心所は、心を通して、目標を識知する(etena cintentī cittaṁ)

活動としては、心は、純粋に、識知の過程に過ぎない(cintanamattaṁ cittaṁ)。

「純粋活動」という、この定義は、三者の中において、最も適切な定義、説明である、すなわち、心は、純粋にただ目標の過程を認知するか、あmたは識知するのみであるが故に。

識知の活動以外、それは造作者に属したり、または工具としての実際の個体、実体はない。

「造作者」と「工具」という定義を持ち出すのは、ある種の人々の「我見」を対治する為である;

目標を識知することのできる造作者または工具をば、「恒常なる不変の我」とするのは邪見である。

仏教学者は、これらの定義が、識知の活動を実行する「自我(恒常的我)」などない、ただ、心が識知しているのみである事を顕示しているのだ、と指摘する。

この心とは、識知活動のほかなく、この活動は、必ずや生・滅する無常なる法であるに違いない。

12.4.1.1 四種類の鑑別法

どの様な究極法を説明するにしても、諸々のパーリ論師は、四種類の鑑別法を用いて、それらを区別する様にと提言している。

この四種類の鑑別法とはすなわち、一つひとつの究極法のそれぞれの:

一、相(lakkhaṇa)、その特徴;

二、作用(rasa)、それが執行する所の任務(kicca-rassa)または獲得する成就(sampatti-rasa);

三、現起(現象)(paccupaṭṭhāna)、それが[禅修行者の]体験上に顕現する方式;

四、近因(padaṭṭhāna)、それが直接依存する所の近縁。

12.4.1.2 心の相、作用、現起(現象)と近因

心について言えば、その特徴は目標を識知する事である(vijānana)。

その作用は諸々の心所における前導者(pubbaṅgama)である、というのも、それは諸々の心所を領導し、また、常にそれらが随伴するが故に。

その現起(現象)は、禅修行者の体験の中において、相続して不断の過程(sandhāna)として顕現する。

その近因は名色(nāmarūpa)または相応する名法及びその依処色、またはその依処色と目標である、というのも、五蘊界(pañcavokāra)の中において、心は、まったく心所依処色、またはその他の依処色及び目標に依存することなく、単独で生起することは、まったくもって不可能であるが故に。

12.4.1.3 四種類の究極法(paramattha dhamma)

究極法には四種類ある:

心(citta)

心所(cetasika)

色(rūpa

涅槃(Nibbāna)

心、心所と色法は有為法であり、また行法(saṅkhāra dhamma)とも呼ばれる;

それらは独自に生起することができない。一つひとつの項は、その他の法を縁として生起する。

たとえば、心は、独自に生起することができず、相応する心所を縁として生起する外ない。

心と心所は、皆名法であり、安般似相などの目標を体験することのできる究極法である。

色法は、どの様な目標も体験することができない。

心と心所は、同時に生じ、同時に滅し、同一の目標と依処を擁する。しかし、それらは異なった種類の究極法である。

心と心所の間の教法別を理解するために、《法聚論》の註釈である《殊勝義註》において、国王とその侍者のたとえ話を挙げている。

国王は首脳であり、最も重要な人物であり、彼に付き従うのは、従者である。

我々の日常生活において生起する所の諸々の心は、安般似相などの目標を識知する首領であり、心所はすなわち、心の助手である。

心所は、一つひとつの心識刹那において、己自身の任務を執行しなければならない。

一つひとつの心識刹那の中において、心とそれに相応する所の心所は、同時に生起し、その後に、即刻、壊滅する。

あなたは、心と心所が、何の役目を果たしているのかを、詳細に知りたくて、質問するかも知れない。

心と心所は、抽象的なものではなく、あなたが止禅の修行をする時、それらは活発に運用される。

もし、心所がないならば、我々は見ること、聞くこと、想うこと、造作すること、怒ることや執着することができない。

たとえば、安般似相を知見するのは、まさに心なのである。

心が、安般似相という、この法塵を識知する。

この作用を執行するため、それは心所の助けを必要とする、たとえば、安般似相と心を連結するための触、目標に専注するための一境性及び目標を透視する所の慧根など。

上に述べた事柄から、心所を深く理解する事は必要である(+事が分かる)。

それらは、我々の日常生活の中において生起し、それらが出現する時、我々はそれらの特徴を識別できていなければならない。

究極法を了知しないのであれば、苦聖諦と苦集聖諦を了知することはできない;

この二項の聖諦(行法)は、観智の目標である。

もし、これらの行法を了知しないのであれば、我々は如何にして、それらの無常・苦・無我を観照することができるのであろうか?

名色法を識別できて初めて、我々は、心の近因は、相応する心所と色法である事、すなわち、依処色と目標であることが、分かるのである。

(6-37につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>