パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-38(200/430)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
12.4.7 名命根(jīvitindriya)
命根には二種類ある、その一つは同一の心識刹那を維持する所の、それに相応する名法の命である名命根であり、もう一つは、同一の粒の色聚の中の色法の命を維持する所の命根色である。
名命根だけが心所である。
それを通して、それら(同一の心識刹那の中の、相応する名法)は活力を得ることができるか、またはそれ自身、生きたらしめる事ができるか、またはただ生きていることができる。故に、それは命である。
その特徴は、同一の心識刹那の中の相応する名法である;
作用は、それらの発生を支援する事である;
現起(現象)はそれらの存在を維持する事;
近因は維持されるべき名法。
12.4.8 作意(manasikāra)
このパーリ語の直訳は「心の造作」を意味する、すなわち、心において目標を顕現せしめる事。
作意とは、心をして、目標に転向させる心所である;
それを通して、目標が心において顕現する。
それは、今ここの心と、その前の有分心をして、異なるものにするが故に、作意と言う。
それは以下の様な形式で作為する:
「所縁をコントロールする作意」(ārammaṇa-paṭipādaka-namasikāra)
「心路過程をコントロールする作意」(vīthi-paṭipādaka-manasokāra)
「速行をコントロールする作意」(javana-paṭipādaka-namasikāra)。
ここにおいて、「所縁のコントロール者」とは、心の中における造作者である、故にそれは作為するーー目標を心において顕現せしめる心所である。
「心路過程のコントロール者」とは、眼識などの心路過程を、心中に顕現しせめる所の、五門転向心である。
「速行のコントロール者」とは、速行心を心中に顕現せしめる所の意門転向心である。
この三者の内、ここで説明するのは作意の心所である。
作意(所縁のコントロール)の特徴は、相応の法を目標に向かって「指示して向かわせる」(sāraṇa);
作用は、相応を目標へ(+引導し)向かわせる;
現起(現象)は目標に対面する;
近因は目標。
作意は船の舵が、船の方向を目的地に向かわせるのとよく似ている;
または御者が、馬たちをその目的地に向かわせる様に、作意は、相応の法を指揮して、目標に向かわせる。
作意と尋の二者は、区別されなければならない;
前者は相応の法を目標に転向させるものであって、後者は、それらを目標に投入するのである。
作意は、一切の心において欠ける事のできない識知の要素である;
尋は、欠かす事のできない特有の心所であるとは言えない。(注6)
注6:パオサヤドーの著書《智慧之光(智慧の光)》によると、尋、思と作意の違いは以下の様になる:「尋は心と心所を目標に投入する;作意は、心と心所を目標に転向させる;思は、心と心所が目標に向かうよう促す。それらの間の差異とは、マハーカンダヨン長者は以下の様に、ボートレースに譬える:
ボートレースの時、一つの船に三人の漕ぎ手の選手が船に乗る。一人は後ろに座り、一人は真中に座り、一人は先頭に座る。後ろに座る選手には、二つの任務がある。船の方向をコントロールしながら、船を前に向かって漕ぐ。真中の選手は、船をコントロールすることはなく、ただ船を漕ぐ事に専念する。前に座る選手は、船を前に向かって漕ぐだけでなく、ゴールを確認する任務を擁していて、最も忙しい人物となる。
前に座る選手は、思の様であり、中間の選手は尋の様であり、後ろの選手は作意の様である。
この様に、作意は、相応する心と心所を、目標に転向させる;
尋は、作意の指示を受けた心と心所を目標に投入せしめる;
思は最も忙しく、それはちょうど大工のよき助手の様に、己自身の仕事をこなすだけでなく、同時にその他の弟子の仕事も進むようにする。
(6-39につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>