<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
12.4.9 尋(vitakka)
色々な禅(=ジャーナ)は、「禅支」(jhānanga)の心所によって、区別される。
一つひとつの禅心の、多くの心所の中において、これら[禅支と呼ばれる]心所が、諸々の禅(+のレベル)の相違を齎すし、また、それらが心をして安止に証入させしめるのである。
上に述べた様に、初禅には五禅支[尋・伺・喜・楽・一境性]がある。もし、初禅に入りたいのであれば、この五禅支は、よりよくバランスしなければならないし、目標に対して、しっかりと、緊密に念じる事(=業処を忘れない事)、及び安止に入るのを妨害する所の五蓋を調伏しなければならない。
經の中において、「尋」という言葉は、思考を代表するかの如くに、不正確に用いられる事が多い。しかし、《阿毘達摩蔵》の中においては、それは心を投入する事、またはそれを目標に向かわせる所の心所であると、明確に述べられている。
国王の信書が、村人をして宮殿に入らせしむ様に、尋は、心をして目標の中に投入せしめるのである。
禅定の修習に関して、尋の特別な作用は、昏沈睡眠の蓋(thīnamiddha)を退治することである。
尋は心をして目標に投入せしめる。
その特徴は、心をば、目標に投げ入れるまたは向かわせる事;
作用は、全面的に、目標を打つこと;
現起(現象)は心をして、目標に向かわせる。
註釈の中では、その近因に言及していないものの、目標(たとえば、安般似相)を知る事ができるのは、すなわち、それの近因である。
通常、一般的な尋は、心をして目標に投入せしめる事であるが、しかし、定の育成を通して、尋は禅支に変化することができる。
その時、それは「安止」(appanā)と呼ばれるが、それはすなわち、心を目標、たとえば、安般似相に安止させる、という事を意味する。
尋はまた、「思惟」(sankappa)とも呼ばれるが、この場合は、「邪思惟」(micchāsankappa)と「正思惟」(sammāsankappa)の二種類に分けることができる。
後者は、八聖道分の第二道分である、というのも、それは心をして、四聖諦に投入せしめるが故に。
(6-40につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
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<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>