Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6‐44(209/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

12.4.21.1 禅捨(jhānupekkhā) 

第三禅の中において、捨は最も顕著である。故に諸々の聖者は言う:

「捨と正念を擁する者は楽において安住する」。

当該の捨とは中捨性であり、禅捨と呼ぶ。

禅捨の特徴は、目標に対して中立を保つ事である;

作用はそれに相応する、最も殊勝な世俗的な楽を横において顧みない事;

現起(現象)は殊勝な楽であっても執着しない事;

近因は喜(pīti)の消失。

次の12個の遍一切美心所は六対あり、一つの対ごとに、一個は「名身」(kāya)に関連し、もう一つは心(citta)に関連する。

ここにおける名身は諸々の相応する心所全体を指し、それらが「全体」であることによって初めて「身」と呼ぶことができる。

このでは、「身」は受、想と行の三つの名蘊を指す。

12.4.22 身軽安(kāyapassaddhi)

身軽安の特徴は、心所の不安を平静にする事;

作用は、心所の不安の破除;

現起(現象)は心所の安寧と冷静;

近因は相応する名身。

12.4.23 心軽安(citta-passaddhi)

心軽安の特徴は、心の不安を平静にする事;

作用は心の不安の除去;

現起(現象)は心の安寧と冷静;

近因は相応の心。

それらを、名身(=心所)と心をば、ざわつき、不安に至らせる所の掉挙及び後悔を対治する事であると見做す(+時)、それらは、善心の生起を阻止し、掉挙から導かれる煩悩と対立する。

軽安には多くのレベルが存在する。

我々が布施をしたり、持戒をしたりする時、心所と心の軽安がある。

もし、正確に、軽安の相に関する正見を持つならば、高度のレベルの軽安に向かう人は、それを育成することができる。

止禅を修習して、ジャーナ(たとえば、安般ジャーナ)に到達できる人は、高度のレベルの軽安を体験することができる、というのも、ジャーナの刹那には五根門の領受がなく、またそれらの奴隷になる事がないが故に。

しかしながら、最も高度なレベルのジャーナ軽安であっても、煩悩を滅し除くことはできない。ジャーナ心が消滅した後、それらは再度生起するが故に。

仏陀と多くの弟子たちは、軽安を育成してジャーナの段階に到達したが、しかし、この事は決して、一人ひとりの修行者が、ジャーナを育成して後でしか、観禅を修習することができない、という事を意味しない。

仏陀は解説して言う:

ジャーナ法もまた観禅の目標となりえる、と。

この事は、ジャーナを証得する事のできる人々に、それらに執着しない様に、と教えるものであり、それらを如実に、無常・苦・無我であると了知する様にという教えでもある。

心所と心軽安は、一つひとつの善心と俱生する、故に、観智を育成する時、それらもまた生起する。

究極名色法及びその因、及びそれらの無常・苦・無我の本質を了知し、正見を擁することができたならば、その時にも軽安は存在する。

その時、貪欲または瞋恚によって生じる干渉がない。

軽安はその中の一個の覚支である。

正見(+のレベル)が向上する時、軽安覚支(+のレベル)もまた向上する。

証悟の時、聖道心と俱生する所の軽安覚支は出世間覚支である。

煩悩が、次の段階における証悟によって断じ除かれる時、心は更に平静を増加し、掉挙は更に減少する。

すでに、一切の煩悩を滅尽した阿羅漢は、すでに真正なる軽安に到達していて、それはすなわち、二度と煩悩の干渉を受けない軽安である。

阿羅漢に関しては、《法句經》の偈を参照の事:

「完全なる解脱、寂静と平安のまさしく了知者、

彼は意平静であり、語平静であり、身もまた平静である。」

(6-45につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>