パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」6-45(211/430)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
12.4.24 身軽快性(kāya-lahutā)
身軽快性の特徴は、心所の沈重性を取り除くこと;
作用は心所の沈重性の突破;
現起(現象)は心所の不軟弱;
近因は相応の心所。
12.4.25 心軽快性(citta-lahutā)
心軽快性の特徴は、心の沈重性を取り除く事;
作用は心の沈重性の突破;
現起(現象)は心の不軟弱性;
近因は相応の心。
この二者は、心所と心に沈重を齎す昏沈と睡眠を対治すると見做すことができる。
《法聚論》に基づくと、この一双の心所は、軟弱無力でないところに存在し、それは「警覚(=するどい気づき、以下同様)」を擁するものである、とする。
《根本疏鈔》では、心所と心の軽快性に言及して、その含意を明確に、以下の様に言う:
「心をして、迅速に善法または無常観などに転向せしめる能力である」
軽快性は、善法が沈重軟弱になる昏沈と睡眠を(+対治する)対立法である。
不善心が存在する時、すなわち、沈重性であるが、我々は何等の善法も実行できなくなる、たとえば、布施、持戒、止禅または観禅の修行等。善心には信が必要であり、念または忘れない(+という心)が必要であり、名法の軽快性でもって、沈重性と膠着性(=、固着性、心のこわばり、以下同様)を克制しなければならない。
心所と心の軽快性が存在する時、それは気づきをもって反応し、善法の実践のチャンスを逃すことがない。
たとえば、あなたが、安般念の修行をしていたとする;その時、多くの時間において、警覚心(=するどい気づきの心、以下同様)はないであろう。
あなたは昏沈と疲労を感じ、息を覚知する事に興味がなくなる。
しかし、正念の生起する時、心所と心の軽快性は、それらの作用を執行しているものである;
疲労が消え去ると、次に登場するのは警覚心である。
定力が上昇する時、軽快性もまた上昇する。
定が安般似相に専注する時、軽快性もまた心の沈重と軟弱を断じ除く作用を執行する。
軽快性があるために、疲労は消失し、次に安般似相に専注する警覚心がやってくる。
正見を育成するにも軽快性は必要である。
究極名色法およびその因を了知する所の正見を育成する時、軽快性が軟弱性を断じ除いている。もし、このチャンスを逃さないならば、必ずや、最終的には、究極法を無常・苦・無我として知見することができる。
観智が更に一歩進んで上昇する時、観智の末端において、涅槃を目標に取る所の聖道智が生起する。
この時、軽快性もまた、聖道心と相応して生起し、涅槃を縁として目標に取る。各々のレベルの聖道智に相応しながら生起する所の軽快性は、段階的に沈重性と軟弱性を断じ除いていく。
それらを完全に断じ除いた人は、二度と沈重性と軟弱性を擁することはなく、円満なる軽快性に満たされる。
12.4.26 身柔軟性(kāya-mudutā)
身柔軟性の特徴は、心所の固着性を断じ除く事である;
作用は、心所の膠着性(=固着性、以下同様)の打破;
現起(現象)は目標に対抗しない事;
近因は相応する心所。
12.4.27 心柔軟性(citta-mudhutā)
心柔軟性の特徴は、心の膠着性(=固着性)を断じ除く事である;
作用は心の膠着性(=固着性)の突破;
現起(現象)は目標に対抗しない事;
近因は相応の心。
この二者は、心所と心の固着性を引き起す邪見または我慢(=傲慢、以下同様)を対治すると見做すことができる。
心所と心の柔軟性は、全面的に、邪見と我慢に対抗する。
邪見は膠着性と固執を招く。
たとえば、ある人が不正確な修行に執着する時、その中には名法の膠着性がある事の表現である。
彼は自分自身の古い習慣や考え方堅持しており、故に、邪見を断じ除くのは非常に困難である。
また、ある人が、仏陀の弟子は、透視をしたり、究極名色法を識別できないといい、究極法を識別する智慧は、彼らの範疇の外である、というか、または色聚と呼ばれる微小粒子を見る事等できない、という。
これらの偏見は、究極法を了知する事への障礙になる。
仏法を聞いた後に、我々はそれを正しく思惟し、それに対して正しく修行するならば、観智の育成の始まりが可能になるかも知れない。
我々は、一気に、一切を円満に了知することができる、などと考えてはならない。
我々は、順序に従ってそれを育成しなければならないが、それはすなわち、戒清浄、心清浄などなどである。
心所と心の柔軟性もまた、我慢(=傲慢)を対治することができる。
心に我慢(=傲慢)のある時、心は固着する。
我慢は、己自身の健康、外面、成功、栄誉と聡明によって生起する。我慢とは、非常に断じ除くことの難しいものである。
唯一阿羅漢のみが、完全にそれを滅尽することができる。
心所と心の柔軟性は、善心を支え、(+それが存在する時)名法の固着性、不寛容は存在せず、正しい事柄に対して、心は開明性を保つ。
名法の柔軟性は世故であり、粗雑でなく、固着がない。
慈愛または瞋恚のない時、世故と温和が存在する。
一つひとつの善行、たとえば、布施、持戒、止禅または観禅の修行において、名法の柔軟性は、必要欠くべからずな事柄である。
仏法を聞くときもまた、柔軟性が必要である。
それがなければ、開明的に、仏法を受け入れることができない;
正念をもって、究極法を如実知見している時もまた、柔軟性が必要である。
(6-46につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>