<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
17 如何にして痛苦を滅し除くのか
あなたは、痛苦(=苦痛)から脱離(=逃れる)したいですか?
もし、苦から離れたいのであれば、《諦相經・重閣經》(Kūṭaghāra Sutta、Sacca Saṁyutta)を耳を澄まして聞いて下さい。
「比丘たちよ。
もしある人がこの様に言ったとする:
『苦聖諦を如実に、徹底的に見る必要が無い。
苦集聖諦を如実に、徹底的に見る必要はない。
苦滅聖諦を如実に、徹底的に見る必要はない。
苦の滅に到る道聖諦を、如実に、徹底的に見る必要はない。
それでも私は究極的に、苦を離れることができる。』
ーーこれは不可能である。
比丘たちよ。
もしある人がこの様に言ったとする:
『ビルの一階を建てなくても、私は上層階を建てることができる。』
ーーこれは不可能である。
同様に、もしある人がこの様に言ったとする:
『如実に、徹底的に、苦聖諦を見なくても、如実に、徹底的に、苦集聖諦を見なくても、如実に、徹底的に苦滅聖諦を見なくても、如実に、徹底的に、苦の滅に到る道聖諦を見なくても、私は、究極的に、苦から離れることができる。』
ーーこれは不可能である。
しかしながら、比丘たちよ。
もしある人がこの様に言ったとする:
『如実に、徹底的に苦聖諦を見、如実に、徹底的に苦集聖諦を見、如実に、徹底的に苦滅聖諦を見、如実に、徹底的に、苦の滅に到る道聖諦を見た後であるならば、私は究極的に苦から離れる事ができる』
ーーこれは可能である。
比丘たちよ。
もしある人がこの様に言ったとする:
『ビルの一階を建てた後に、私は次の上の階を建てようと思う。』
ーーこれは可能である。
同様に、もし、ある人がこの様に言ったとする:
『如実に、徹底的に苦聖諦を見、如実に、徹底的に苦集聖諦を見、如実に、徹底的に苦滅聖諦を見、如実に、徹底的に苦の滅に到る道聖諦を見た後であるならば、私は究極的に苦を離れることができる。』
ーーこれは可能である。
故に、比丘たちよ。
『これは苦である』を了知する為に、精勤するべきである;
『これは苦の原因である』を了知する為に、精勤するべきである;
『これは苦の息滅である』を了知する為に、精勤するべきである;
『これは苦の滅に到る道である』を了知する為に、精勤するべきである。」
もし、生死輪廻から解脱したいのであれば、最も重要な事は四聖諦を了知することである。
仏陀は《相応部・辺際村經》(Koṭigāma Sutta、Saṁyutta Nikāya)の中において、非常に明確にこの事を顕示している:
一時、世尊はバッジ族の辺際村に留まっていた。
その時、世尊は、この様に、比丘たちに話した:
『比丘たちよ。
まさに、四聖諦を了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。
それはどの四項(の聖諦)であるか?
比丘たちよ。
まさに、苦聖諦を了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。
まさに、苦集聖諦了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。
まさに、苦滅聖諦了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。
まさに、苦の滅に到る道聖諦を了知しない、徹底的に見ることがないが故に、あなたと私は、長い間の輪廻の中で、流転し、徘徊した。
比丘たちよ。
あの苦聖諦は、すでに了知され、徹底的に見られたのある;
あの苦集聖諦は、すでに了知され、徹底的に見られたのである;
あの苦滅聖諦は、すでに了知され、徹底的に見られたのである;
あの苦の滅に到る道聖諦は、すでに了知され、徹底的に見られたのである;
存在における貪愛はすでに切断され、存在に向かう渠道は、すせい破壊された。二度と来生は、有ることが無い。』
これは世尊が開示した言葉である。
この様に開示した後、善逝大師はまた、以下の様に述べた:
由於不如実 徹見四聖諦
我等長久地 流転種種生
今聖諦已見 有渠已切断
断除苦之根 更不復再生
(四聖諦を如実に徹底的に見ることがないが故に
我々は、長い間、種々の生を流転した
今、聖諦をすでに見て 渠はすでに切断され
苦の根も断じ除かれた 二度と再生することはない )
(7-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>