パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7-5(267/430)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
仏陀は、この様な比喩でもって何を説明しようとしているのであろうか?
ちょうど、芭蕉樹がの幹が、多くの層の鞘の合成体であて、それぞれの層には、それぞれの特徴がある様に;
行蘊(saṅkharakkhandha)もまた、多くの心所の合成体であり、一つひとつの心所は、それぞれ、己自身の特徴と作用を擁している。
心所(ceasika)は52種類(注8)あり、それらは、心(citta)と共に同時に生起し、同時に壊滅する。同じ依処に依存し、同じ目標を縁に取り、各自の特有の作用を執行する事を通して、心が前面的に目標を認知する事を支援する。
それらの中において、受は受取蘊であり、想は想取蘊、その他の50種類の心所は行取蘊である。
ある種の心所は、一個の心識刹那の中で生起するが、しかし、すべての心所がそうであるとは限らない。
たとえば、安般初禅でいえば、安般初禅の中の禅心は、色界善心であり、一つひとつの心識刹那の中には、34個の名法が存在している。
その中の受は楽受であって、受蘊であり;
想は安般初禅に対する印象であって、想蘊であり;
識は、安般禅相への認知であって、識蘊であり;
その他の31個の心所は、行蘊である。
行蘊の中の思は善、不善名法が果報を生じる時の強弱を決定する場合の最も顕著な要素である、その意味はすなわち、もし、業を造(ナ)す時に、その思が強ければ強いほど、結成する果報もまた、益々強くなる、という事である。
また、行蘊の中においては、一般的な心所もまた含まれる、たとえば、一境性と作意等である;
善心所、たとえば、信、念と無貪など;
不善心所、たとえば愚痴(=愚かで無知な事)、貪欲、瞋恨、邪見などである。
禅心は善心でるため、その中には不善心所は存在しない。
上に述べたこれらの心所は、みな、同一の心識刹那の中において生起し、その後、跡形もなく消失する、故に、それらは無常である。
それらは過去の因・縁と、現在の縁に依存してせいきするのであって、っ決して理由も無く生起するものではない。故に、それらは完全に恒常なる自我(=私、我)または主宰者の本質を擁していないのである。
これは、仏陀の行取蘊に対する解説である。
仏陀は続けて開示する。
「比丘たちよ。
たとえば、一人の魔術師がまたは魔術師の生徒が、十字路に立って、馬術を披露する時、一人の視力のよい人がそれを視察し、それに対して深く思慮し、それを子細に研究するあんらば、その魔術は、この人にとっては空の、虚の、実質のないものとなる、というのも、魔術の中には、実質など存在していないが故に。
同様に、比丘たちよ。
どの様な識であろうとも;
過去の、未来のまたは現在のであっても、内在のものまたは外在のもの、粗いもの、微細なもの、劣等なもの、殊勝なもの、遠いもの、近いものであっても、比丘はそれを視察し、それを深く思惟し、それを子細に研究する。
その様に比丘にとって、識は、空であり、虚であり、実質のないものである、というのも、識の中において実質的な存在はないが故に。
(注8)「52心所」は巻末の「付録」参照の事。
(7-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>