Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」7‐6(268/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

仏陀がこの様な比喩を述べる含意は何であろうか?

識(viññāṇa)の特徴は、目標(所縁)を認識する事である。

もし、識を、人を騙す、人をして邪見を起させるという観点から見ると、識は、魔術と同じである。

たとえば、それは人々をして、以下の様な間違った、錯覚した印象を齎す;

行ったり来たり、立ったり座ったりしているあの人が、ずっと同様の身・心を擁しているのだ、という錯覚である。

しかしながら、実際には、それらの行動の内に、身・心は刹那刹那に変化しており、同様ではありえない。

(+この人がものを)見る時は見る時の身・心、聞く時は聞く時の身・心、思考する時は思考する時の身・心であって、それぞれ異なっているのである。

これらの心識の生起は、意志によって、主宰されるものではない。

私は、「私はみたい、私は聞きたい」等々とは、決定することはできないのである。

というのも、識は過去の因と縁及び現在の因と縁によって生起するが故に。

たとえば、色彩が眼門(眼浄色)と意門(有分心)を打つとき、眼識は、眼門心路過程の中において生起して、見るという作用を執行する;

眼識が生起するのか過去因とは、無明、愛、取、行及び業であり;

現在因は色彩、眼根(眼浄色)、接触、光明と作意である。

これらは、ただ因と縁の和合によって生じた現象であり、一個の「我、私」が見るという過程を操縦している訳ではない。

我々が識が生じないようにと決意したとして、そして、わざと眼根、耳根、鼻根、舌根、身根を破壊したとしても、心中にはやはり目標が出現するのであって、それゆえに、意識は生起するのである。

この様に、その他の種類の取蘊と同じ様に、識取蘊もまた因と縁によって生じるのであって、恒常なる自我(=我、私)という存在はないのである。

私は例を挙げて説明する:

もし、ある人間が、己自身の親愛なる子供を亡くしたとしよう。

過度の思念によって、彼は以下の様に考える:

「おお、私の可哀そうな子供はすでに亡くなった。

なんと苦痛であることよ!

私の心は、日夜、愁、悲、憂、悩が満ちていて、この様に何か月を過ぎた。

私は、もう二度と楽しい気持ちになれないであろう。」

また別の人間は、物理学に関して豊かな学識をもっていて、かつ、己自身の知識を誇りに思っていた。

彼は、一般の人々と物理学について論議した後、この様に言う:

「おお、私の心の力はどれほど強いことか!

私の心は、他の人の心の様に、無能ではない。

私は他人より更に豊富な知識と理解をもっている。」

なぜ、人々はこの様に考えるのであろうか?

というのも、彼らは、心は恒常であると、信じていて、心は、過去と現在の因と縁によって生・滅する事を知らないからである。

いま、もし、人が、あの悲惨な人に、あなたは百億円の宝くじに当たったと告げたならば、彼は已然としてこの様に思うであろうか:

「私の心は、日夜、愁、悲、憂、悩が満ちていて・・・。私は、もう二度と楽しい気持ちになれないであろう。」

私はあり得ないと思う、というのも、悲哀と楽しさは、ともに恒常ではなく、ただ因と縁によって生・滅しているに過ぎないが故に。

また、上に述べたあの、学識でもって名誉としている人と、博学な哲学を擁する智者と哲学の話をする時、彼はなおも:

「おお、私の心の力はどれほど強いことか!

私の心は、他の人の心の様に、無能ではない。

私は他人より更に豊富な知識と理解をもっている。」

と言うであろうか?

私はあり得ないと思う、というのも、因と縁の条件が変化したならば、心識もまた変化するが故に。

仏陀は五種類の比喩でもって、五蘊についてそれぞれ解説し、系統的に、五取蘊の中の、一つひとつの取蘊は空虚であり、実体がなく、本来の自己というものはない、ということを示した。

衆生は純粋に、ただ五取蘊によって構成されていて、別のものではない以上、衆生の中において、実質(=実体)や、恒常の自我(=私、我)は存在しようがないではないか?

以上が、仏陀が《泡沫比喩經》の中において、開示した所の、11種類の五蘊を無常・苦・無我として観照する方法である。

更に一歩進んで、上に述べた解説を確認する為に、私は《中部、小薩遮迦經》(Majjhima Nikāya、Cūḷasaccaka Sutta)の中において、小薩遮迦が提出した問題と、仏陀の回答を引用したいと思う:

(7-7につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>