<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
Ⅴ 五比丘(Pañcavaggiyā)
ここにおいて、みなさんに《転法輪経》と《無我相經》の中において言及された所の五比丘を紹介したいと思う。
彼らは、かつて、過去生において波羅蜜を累積した。
まず私は、憍陳如尊者の波羅蜜について述べたいと思う。
1、憍陳如尊者(Aññāsi Koṇḍañña Thera)
勝蓮華仏(Buddha Padumuttara)の時代、彼は一人の在家居士であったが、彼は、仏陀が、一人の比丘に対して、戒臘が最も高い長老であると、宣言したのを見て、彼は己自身もまた、未来仏の教化の時代において、同様の栄誉を得たいと思った。
この願望を達成するために、彼は多くの誠実な善業を重ねたが、その中の一つは、仏陀の舎利を供養し、奉じるために、一座の金色の房舎を建てたことであり;
また彼は、10万年の内に、機会あるごとに、止禅と観禅の修行をした。
《比喩經》(Apadāna)に基づくと、彼は勝蓮仏が成仏(=仏陀になる事)した後、一番最初に仏陀に食べ物を供養した人物である。
彼は最後の一生において、カピラバットゥ付近のドーナバテゥで生まれた。
非常に裕福な婆羅門の子として生まれた。
彼は、ゴータマ仏より早く生まれ、人々は彼の族姓ーー憍陳如という名で呼んだ。
彼は三部のウェーダに通じ、特に面相学に精通していた。
我々の菩薩がシッダタとして出生した時、彼は、太子の相を見るために宮殿に招かれた、八人の婆羅門の内の一人であった。
彼はウェーダの中において、その方面では、若年の初心者であったが、しかし、彼は、唯一ただ一人、太子が仏陀になることの出来る婆羅門であると、宣言したのである。
彼は太子の面相学の占いを終えた後、彼は四人の友人ーー跋提迦、衛跋、摩訶那摩、阿説示と共ーー出家したのである。
それは太子が出家し、成道し、するのを待って、親しくし、法を学び、証悟するためであった。
彼らは「五比丘」(Pañcavaggiyā)と呼ばれた。
菩薩シッダッタ太子が出家して間もなく、ウレベラーで苦行を行している時、その難度は、それまで誰も到達したことのにものであり、その時間は六年間の長きであった。
ある日、太子は、めまいで倒れてしまったが、一人の天神が彼の父親である浄飯王(King Suddhodana)に、太子はすでに死んでしまった、と伝えた。
しかしながら、浄飯王は、阿私陀仙人の予言を信じていたために、天神の報告を信じることはなかった。
太子の母親は、兜率天に天子に生まれていたが、この時、太子の所へ行って励ました。
後に、太子は、極端な苦行は愚かな行為であることに気が付いて、それを放棄することにして、その後、通常の食事をする様になった。五比丘は、太子の様子に非常に失望し、彼から離れて、仙人墜処(Isipatana)に去った。
証悟の後、仏陀は、仙人墜処へ行って、五比丘に、《転法輪経》を開示をした。
この經を聞き終わった時、憍陳如と一億八千万人の梵天神はみな、初果ソータパナを証悟した。
彼は、一番最初に仏法ーー四聖諦ーーを証悟した人である為、故に、仏陀は彼を讃嘆して言った:
「憍陳如はすでに理解した、憍陳如はすでに理解した。」
その後、憍陳如は「理解した憍陳如」(Aññāsi Koṇḍāñña)と呼ばれる様になった。彼は最初に、比丘戒を受けた人間でもある。
受戒の方式は、仏陀によって、以下の様に呼びかけられた:
「善来、比丘、法はすでに善く説かれた、苦から離れるために、梵行を堅持せよ。」
五日の後、彼は《無我相經》を聞いた後、阿羅漢果を証悟したのである。
後に、祇園精舎(Jetavana)において、仏陀は、比丘たちの間において、彼が最初に法を見た第一の大弟子である、と宣言した;
彼もまた年長(rattaññuū)第一の大弟子とも呼ばれた。
サンガの中において、憍陳如は、仏陀が転法輪をする時に、付き従っている二人の上席弟子(シャーリプトラとモッガラーナ)の後ろに座った。
彼らは、仏陀に礼拝した後、憍陳如尊者にも礼拝した。
この様であったんので、彼は仏陀の傍にいるのは、己自身にも、他人にもよくないと思った。
また彼は、彼の外甥が、富楼那弥多羅尼子(Puṇṇa-Mantāniputta)が、仏教の中において出家して、将来、説法第一の大弟子になる事に気が付いた。彼は外甥に会いに行き、彼を剃髪得度した後、己自らら、仏陀に会いに行った。憍陳如本人は、仏陀の許可を得た後、六牙森林(Chaddanta Forest)のマンダーキニー(Msndākinī)の岸辺で、12年間住んだのである。
我々の菩薩が生まれた時、憍陳如は、すでに35歳であった;
菩薩が成道するのを待って、彼は70歳になった;
その後に森林に12年間住んだ時、森林の大象が、順番に彼に食べ物を供養し、かつ世話を焼いた。
12年後、あなた彼は戻ってきて、仏陀に礼拝した後、仏陀に別れを告げて、般涅槃の準備に入ったが、その時彼はすでに82歳であった。
仏陀に別れを告げた後、彼は六牙森林に戻り、そこで般涅槃(最後の寂滅)した。
聞くところによると、ヒマラヤ山のすべての衆生がみな、このことで涙を流したという。彼の火葬は、ナーガダッタ天神が率いる、8000頭の大象によって、厳かに行われた。最もレベルの低い天神から、最高のレベルの梵天神まで、すべての神が、この葬儀に参加し、一人ひとりの神はそれぞれ、檀香(=白檀)の枝を捧げた。
アヌルッダ尊者を先頭とする500人の比丘がその場にいた。
火葬の後、舎利は、竹林精舎(Veḷuvana)に届けられて、仏陀に渡された。
仏陀は自ら、自らその捨離を、地面から湧出した銀の塔の中に収めた。
大論師覚音尊者(Venarable Buddhagosa)は、あの銀塔は、彼の時代にまだ存在していた、と証言している。
《長老偈》の中において、憍陳如の述べた偈が幾首か、残っている(+sがそれは)同修者に梵行を堅持する様に励ますものであって、というのも、一切の有為法はみな、無常・苦・無我であるが故に(+憍陳如はその様に偈を残したのである。)
ここでいう、梵行(brahmacariya)とは「教梵行」(sāsana-brahmacariya)と「道梵行」(magga-brahmacariya)がある。
「教梵行」とは、すなわち、戒・定・慧の三学である。
「道梵行」とは、すなわち、四種類の聖道である。
三学は禅修行者が各レベルの聖道を証得する為の支えとなる要素である。
ある時、憍陳如尊者は、帝釈天王(Sakka)の要求に従って、法話をした。
帝釈天王は、聞法の後、己自身が非常に歓喜している事を表現した、というのも、その法話は、まるで仏陀自身が、述べたかの様に殊勝であったが故に。
ヴァンギーサ尊者(Venerable Vaṅgīsa)は、一度、仏陀の面前で、憍陳如尊者の徳行を、偈の形式でもって、讃嘆したことがある。
彼は言う:
仏陀の後に続いて開悟した
精進の憍陳如尊者は、
安楽の住処を得た者である、
常に、閑静な処に、処する者である。
導師の教法を修行する者は、
証悟を体験することができる、
いつもつねに勧学であった彼は、
完全無余に証得した。
三明を具備する大威徳者は、
他人の心を了知することに精通する、
憍陳如は仏陀の真の子であり、
導師の足下において敬虔に礼拝する。
(8-2につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>まで。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>