南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-1(288/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

Ⅶ 皮帯(=皮ベルト、皮の首輪、以下同様)束縛經(二)

(Gaddulabaddha Sutta 2)

私はこの様に聞きました。

ある時、世尊が舎衛城に留まっていた時の事。

世尊は比丘たちに以下の様に話した:

「比丘たちよ。

生死輪廻の源は察知することができない。

生死輪廻の中において、幾度となく流転する衆生は、無明に覆われ、愛欲に束縛された起点は、知る事ができない。

比丘たちよ。

ちょうど皮帯(=皮の首輪)で束縛された犬が、硬い切り株または柱につながれて、彼が歩く時は、その切り株かまたは柱に沿って歩くしかない;

立つ時も、彼はその切り株かまたは柱に沿って立つ;

坐る時も、彼はその切り株かまたは柱に沿って座る;

横になる時も、彼はその切り株または柱に沿って横になる(+様に)。

同様に、比丘たちよ。

いまだ法を聞いたことのない凡夫は、色を斯くの如くに思い成す:

『これは私のものである;

これは私である;

これは私の自我である(=これは私の本来の自己である)。』

歩く時、彼はこの五取蘊に沿って歩き、

立つ時、彼はこの五取蘊に沿って立ち、

坐る時、彼はこの五取蘊に沿って座り、

横になる時、彼はこの五取蘊に沿って横になる。

故に、比丘たちよ。

常に、己自身の心を以下の様に反省せしめなければならない:

『長い間、この心は、常に、貪、瞋、痴によって汚染されて来た。』と。

比丘たちよ。

衆生は心の煩悩によって、汚染される;

衆生は心の清浄を通して、浄化される。」

当該の經の中において、仏陀はまたこの様に、犬(+の状況)を通して、法を聞いたことのない凡夫を比喩している:

「比丘たちよ。

ちょうど皮帯(=皮の首輪)で束縛された犬が、硬い切り株または端につながれている(+様に)。」

その犬は、皮帯(=皮の首輪)でもって、硬い切り株または柱につながれていて、逃げることができない。

同様に、もし、法を聞いたことがない凡夫に、強力な身見(sakkāyadiṭṭhi、薩迦耶見:個体、身体があると思う邪見)と愛欲のある時、彼は生死輪廻から逃げることができない。

なぜであるか?

というのも、彼は身見の皮帯によって束縛され、愛欲の縄によって、五取蘊の硬い柱に結わえつけられているが故に。

法を聞いたことのない凡夫が、五蘊を「これは私の私である(=これは本来の自己である)」と見做す時、これは我に執着しているのだと言える;

彼が五蘊を「これは私のものである」と見做す時、これは愛欲の執である;

彼が五蘊を「これは私である」と見做す時、これは傲慢の執である。

無明は、通常、この三種類の執着と同時に生起する。

無明と身見が彼の慧眼を覆い隠し、彼をして如実に諸法を照見できない様にする。

身見は、彼の首に巻きついた皮の首輪の様であり;

愛欲は縄の様であり、

彼を五取蘊の柱に縛り付ける。

身見、愛欲と驕慢という、これらの煩悩の影響の下、彼は善業と悪業を造(ナ)す。

これら、煩悩を根源とする、業力の潜在的な力は、臨終の後に、次の一世の生命を生じせしめる事ができる。

新しい生命が生じた後、老、病、死と愁、悲、憂、悩が、再び生じてくる故に、彼は死輪廻から解脱することができない。

故に、仏陀は言う:

「比丘たちよ。

常に、己自身の心をして以下の様に反省しなければならない;

『長い間、この心は、常に、貪、瞋、痴の汚染を受けて来た』と。

比丘たちよ。

衆生の心は、煩悩によって汚染される;

衆生の心は、清浄を通して浄化される。」

(10-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>