Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-2(290/430)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

仏陀は続けて開示して言う:

「比丘たちよ。

あなた方は『行図』と呼ばれる図書を見たことがありますか?

「見たことがあります、世尊。」

「比丘たちよ。

『行図』と呼ばれる図書は、色々な内容がありますが、それもまた心いよって設計されたものです。そして、心自体は、『行図』と呼ばれる図書より更に内容が豊富です」

ここでいう「図書」とは「行脚図」の事を指す。

サンカブラフミン(SaṅkhaBrahmin)はこの種の図を持って、四方に行脚し、彼らの教法を宣揚したため、この種の図を「行脚図」または「行図」と呼ぶのである。

サンカブラフミンは、異教の婆羅門の一派であり、彼らは布の上に、善趣と悪趣の各種の図案を描いて、成功と失敗の説明をするのに用いたのである。

彼らは図画を展示して人々に見せながら以下の様に説明する:

「もし、人がこの様な行為をするならば、この様な結果を得る;

もし、あの様な行為をするならば、あの様な結果を得る。」

これらの図書は、非常に精緻であるがしかし、心はこれらの図書より尚精緻である、というのも、彼らは先にどの様なものを布の上に描き出すかを考えて後に初めて、考えに基づいて、それらの図画を描きだすからである。

ある時には、彼らは、太陽よりもなお輝くルビーを描きたいと思うかもしれないが、しかし、それは想像することができるだけであって、実際には描きだすことは、できはできない。

このことから、心は、布の上に描かれた図よりも尚、多様であることあ分かる。

故に、仏陀は言う:

「『行図』と呼ばれる図画の、その多様性は、心によって設計されたものである。そして、心はその『行図』と呼ばれる図画よりなお、多様である。」

「故に、比丘たちよ。

常に、以下の様に己自身の心をして反省せしめなければならない:

『長い間、この心は、常に貪、瞋、痴によって汚染されてきた』

比丘たちよ。

衆生は、心の煩悩によって、汚染される;

衆生は、心の清浄を通して、浄化される。

比丘たちよ。

私は曾て、その他の衆生界が、畜生界ほど多様化しているのを見たことがない。たとえ、畜生界のあれらの衆生もまた、彼ら自身を多様化せしめたのであるが;

しかしながら、心は。畜生界の。あれら衆生に比べても、なお多様化しているのである。」

(+上記の)要点は、以下の通りである。

 畜生界の衆生の多様化は、彼らが、畜生に生まれ変わることになった原因である過去の業の多様化を反映している。そして、業の多様化とは、愛欲(taṇhā)心所の多様化が根源である。

鶉、鷓鴣(シャコ=雉)などの畜生は、過去世において種々の業を造(ナ)した時、以下の様に思ったわけではない:

「我々は、この様に多様化しよう」と。

しかし、過去のある種の悪業の業力が熟した時、彼らは相見合う鶉、鷓鴣等の物種(yoni)の中に生まれる事となった。

彼らの外見と形態、生活方式などの違いは、みな物種からきている。

ある一つの物種に生まれ変わる衆生は、当該の物種に相見合って、それぞれ多様化して、違いが生じる。

こうしたことから、違いは、物痰の中において形成され、物種は過去の業を映し出す、と言える。

たとえば、もしあなたが、過去において、人間に生まれる善業を累積したならば、その善業の業力が熟する時、あなたは相見合う所の人類という物種の中に生まれ、かつ、その物種によって五取蘊が生じる。

これが、父母と子女の間に、通常、相似合う所がある、という理由である。

同様に、もし、あなたが過去世において、鶉になる様な悪業を累積したならば、当該の悪業の業力が熟した時、あなたは相見合う所の、鶉の物種お中に生まれ変わる様に促され、当該の物種によって五取蘊が生じる。

こうしたことから、(+存在の差異)違いは、物種の中において形成され、物種は、過去の業を反映している、のだと言える。

あなたが過去世において善業を累積し、もし、未来世において、感官の楽しさを享受したいと強烈に欲するならば、その業力が、今世の果報を生じる時、あなたは感官の楽しさを享受したいという強烈な欲望の下、貪欲的な性格を持った人間になる。

同様の因果関係は、瞋恨の性格の人、愚痴(=愚かで無知)な性格の人、驕慢な性格の人、嫉妬深い性格の人などに応用することができる。

あなたが過去世において、善業を累積する時、たとえば、仏、法、僧(=サンガ)の三宝、業果の法則等に対して、強固な信心(=確信)のある時、その業力が今世の果報を生じる時、あなたには信心(=確信)が充満し、信心(=確信)の性格を持つ人間になるのである。

あなたが過去世において、善業を累積する時、もし、その善業に強力で力のある慈愛が伴う時、または慈心ジャーナに取り巻かれる時、その業力は、今世において果報を生じる時、あなたは慈愛に満ちた、仁慈の性格を持つ人間になるのである。

あなたが過去世において、善業を累積する時、もし、その善業が強くて力のある智慧(たとえば、観智)によって取り巻かれている時、その業力が今世において果報を生じる時、あなたは利根の、智慧のある性格の人間になる。

また、もし、行捨智(saṅkhārūpekkhañāṇa)の様な、強い観智の業力が、今世の果報を生じたならば、あなたは涅槃を証悟するための強くて力のある、鋭敏な智慧を具備する(+人間になる)。そして、止禅と観禅を修習するならば、あなたは快速に四聖諦を徹底的に悟ることができる。

この様に原因で、仏陀は以下の様に開示して言う:

「故に、比丘たちよ。

常に以下の様に己自身の心を反省せしめなければならない:

『長い間、この心は、常に、貪、瞋、愚によって汚染され続けてきた。』

比丘たちよ。

衆生は煩悩によって心を汚染する;

衆生は心の清浄を通して浄化される』。

(10-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html

<中国語→日本語 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>