パオ・セヤドー弘法記念「顕正法蔵」10-16(313/430)
<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
しかしながら、彼の業は、強くて力のある慈心ジャーナに囲まれていた。
なぜ、彼の慈心ジャーナは、それほど強くて力があるのか?
というのも、彼は特に、慈心ジャーナの修行に重きをおいていたのが、一つの要素である。
慈心ジャーナを基礎にして、彼は観禅を修行した。慈心ジャーナの支援の下、彼の観智は明晰で、深く、徹底しており、強くて力があった。
彼は強くて力のある観智を足掛かりにして、彼の慈心ジャーナ更に強くて力のあるものにした。
《発趣論》に基づくと、これは強くて力のある助縁であって、「親依止縁」(upanissaya paccaya)と言う。
なぜ、この様なことが(+実現するのか)?
というのも、彼は慈心禅に入り、その後にそれより出定して、即刻、ジャーナ名法をば、無常・苦・無我として、観照する。
そして、その後にまた、慈心ジャーナに入り、出定後、ジャーナ名法を無常・苦・無我として観照し・・・この様に、何度となく繰り返して、修行したのである。
この様な、不断の繰り返しによる禅修のために、彼は慈心ジャーナと観禅はみな、安定して、かつ強くて力があるものとなる、これがもう一つの別の要素である。
また、慈心ジャーナは、瞋恚怨恨と対立する。
これが、なぜ、彼の心が、常に、瞋恚怨恨から離れているのは、という理由である。
止禅と観禅の修行を通して、彼は、長時間、瞋恚怨恨を抑制することができるし、それが生起しない様にすることができる。
また、彼の神通も、瞋恚怨恨を含む内心の一切の煩悩を抑制することを助けることができる;
彼の観智もまた、同様に、これらの煩悩を抑制することができ、そのため、彼の心は浄化される。
浄化された心によって、彼の願望は、円満に達成される。
あの一生の中において、彼が止禅と観禅の修行の実践は、10万年の長きに達したのである。
彼の意志力は非常に堅固で強いものであるが、この意志力は、業である。
意志の力が堅固で強い時、どの様な願望でも、実現することができるのである。
我々の仏陀の時代、彼は富豪須摩那(Sumana)の子として生まれた、すなわち、給孤独長者(Anathapiṇḍika)の弟として、である。
彼の顔立ちが英俊で、清らかで、美しかったために、彼は須菩提(Subhūti)と呼ばれたが、その意味はすなわち、「善相」である。
これは、彼が過去世において、瞋恚怨恨の心がないこと、または煩悩を取り巻く善業の果報によるものである。
給孤独長者が、祇園精舎を布施したその日、須菩提は、仏陀の説法を心静かに聞いて、法に対して、信心(=確信)を起して、出家した。
出家した後、彼は二部の毘尼に精通した。
仏陀から業処を得た後、一人で森林の中にいて、修行した。
彼は慈心禅を基礎にして、次に観禅を修行し、阿羅漢果を証得した。
彼は(+誰にも)平等に説法し、親しいとか疎遠であるとかの、分け隔てをしなかった。
仏陀は彼を寂静遠離(araṇavihāri、争なく住する者)と、供養受け取り第一(dakkhineyya)の大弟子と宣揚した
彼のあの、強くて力のある慈心禅は、彼の心をして、常に寂静であらしめたし、またすでに、ずっと以前から、煩悩から遠離していて、争いなく住していたのである。
聞くところによると、彼が托鉢で村に入る時。一軒ごと、施主の家の戸口に立って、慈心ジャーナに入った後、出定の後に、ようやく供養を受けるのであったそうである。その様にすれば、施主たちは、最大の福徳を得ることができるが故に。
彼が王舎城まで行脚した時、頻毘婆羅王は、彼に一軒の住まいを建ててあげることを約束したが、王はそのことを実行するのを忘れてしまった;
須菩提尊者は、露天の場所で禅の修行をしたが、長い時間、雨が降ることはなかった。
後になって、頻毘婆羅王が、雨の降らない原因を知って、急いで部下に命令して、須菩提尊者に、屋根を葉で葺いた小屋を造らせた。
須菩提尊者が小屋に入って、稲わらで作ったベッドに座るや否や、雨が降り始めたのである。
彼の心は、慈心ジャーナと出世間智慧によって清浄であったが故に、天神もまた彼が雨でぬれない様にと、彼を保護したのである。
このことから、清浄な心は、衆生を清浄にするのだ、ということが分かる。
次に、七番目の答えを聞いて欲しい:
(10-17につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>