<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
引き続き、《小業分別經》の結論を聞いて下さい:
「ここにおいて、学生よ。
短命を齎す道は、人を短命にさせ;
長寿を齎す道は、人を長寿にさせ;
多病を齎す道は、人を多病にさせ;
健康を齎す道は、人を健康にさせ;
醜悪を齎す道は、人を醜悪にさせ;
美しさを齎す道は、人を美しくさせ;
影響力の無さを齎す道は、人を影響力のない者にさせ;
強い影響力を齎す道は、人に強い影響力を齎し;
貧困を齎す道は、人を貧困にさせ;
裕福を齎す道は、人を裕福にさせ;
身分の低さを齎す道は、人を低い身分の者にさせ;
高貴を齎す道は、人を高貴にさせ;
衆生は己自身の造(ナ)した業の所有者であり、業の継承人である;
彼らは業から始まり、業に結縛され、業を拠り所にする。
これによって、業が衆生の高下を齎すのである。」
上に述べたこれらの物語の中において、我々は、多くの卓越した尊者は、過去世において、波羅蜜を積んだ経過を読み取ることができる。
彼らは善業、例えば布施、持戒、止禅と観禅の修行などを累積した。
しかし、無明、愛、取の多様化によって、業もまた多様化したのである;
業(業識kammaviññāṇa)の多様化によって、彼らもまた多様化する。
同様の原則は、不善業が熟した時に状況に適用することができる。
次に私は引き続き《皮帯束縛經》を、解説したい。
仏陀は經の中において以下の様に言う:
「比丘たちよ。
一人の画家またはペンキ職人は、染料、膠または顔料、藍、茜草を使って、すでに磨き上げた平な板、壁、または布の上に、すべての特徴を持つ男性または女性を描き出す。
同様に、比丘たちよ。
未だ法を聞いたことのない凡夫が、何かを成す時、ただ色を成し、ただ受を成し、ただ想を成し、ただ行を成し、ただ識を成す。」
いま、法を聞いたことのない凡夫は、毎日身体、言語及び意念による行為を行う。
これらの行為は、善または不善の行または業であり、その根源は無明、愛、取、行である。
法を聞いたことのない凡夫が、煩悩を無余に滅尽せしめるに到る道を修行しないのであれば、上に述べた無明、愛、取、行及び業は、それらの果報、すなわち、五取蘊を、生じ続けているのである。
世俗諦に基づくと、これらの五取蘊は、男性とか、女性とか呼ばれる。
善業は美しい男性や女性を生み;
不善業は醜悪な男性や女性を生む。
故に、善業または不善業を累積することは、ちょうど、すでに綺麗に磨き上げた平らな板、壁または布の上に、男性または女性の形象を描き出す様なものである。
善くて巧みな画家は、美しい男性または女性の像を描き;
劣った画家は、醜悪な男性または女性を描き出す。
同様の理で、愚昧で、いまだ法を聞いたことのない凡夫は、不善業を累積する;
理智があり、すでに法を聞いた凡夫または有学聖者は、善業を累積する。
私は、上に述べた事柄の含意を明確にするために、例を挙げて説明する。
(10-26につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等ほぼ原文ママ。★誤字脱字を発見された方は<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/index.html
<中国語版→日本語訳出 翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>