もう随分前の事ですが、日本の映画館で【清凉寺】という題の映画を見たことがあります。
主演は栗原小巻、わき役に多くの中国人が配されていました。これは中国が作成した映画で、内容は、旧満州(中国人は東北地方と呼ぶ)に移住していた日本人女性(栗原小巻)が、日本の敗戦の為に母国へ引き上げる途中、まだ幼い子供(乳幼児)を満州においてこざるを得なくなった、その前後のストーリー。
私はその時、映画の内容より【清凉寺】という映画の題が、大いに気になりました。
中国のお寺は臨済宗が多く、その臨済宗のお寺の名前に【清凉】とつくのはどういう事であろうか?と疑問に思ったのです。
最近、少しばかり分かった事があります。
中国の禅宗で【清凉】というは、テーラワーダ・アビダンマでいう【中捨】(聖なる無関心)の事ですね。
テーラワーダでは、ゴータマ仏陀の教えた、40の業処の一つを選んで修行する・・・私なら安般念(出入息念)ですが、それを長年実践していると、心は次第に、外部に漂い出る事が少なくなります。
そうして、この辺りまで修行が出来てきた場合、日常生活で、何らかのトラブルに巻き込まれた時に、心は中捨を保つことができる様になりますが、それが清凉(心)でもある、という訳です。
最近、タイの僧侶から聞いたのですが、ご自分のお寺では
《嫉妬心をなくす事が、修行の大きな目標として掲げられている》との事。
心を大きく汚すものの内、嫉妬心は非常に強烈ですから、これを制御して中捨する事が出来れば、心は清凉を得て、修行は次の段階に進むことができる、という訳です。
中捨と清凉心が同じものであれば、テーラワーダと大乗は、底では繋がっている事になり、この様であれば、緬甸のパオ森林僧院に、なぜ、大勢の中国人や台湾人がひきも切らずに修行に来るのか、も理解する事ができます・・・と言いますのも、パオSayadaw が復活させ、教導する《いにしえの仏道》は、戒より始めて、中捨へと進み、最後に涅槃を体験する様、明確な段階的メソッドになっているからです。