本日のブログ:
『禅病その後の、その後の、その後』
という題ではありますが、
《禅病のそもそも(注1)》
について、書いてみます。
私が緬甸のパオ森林僧院で、瞑想中に異変を感じたのは、僧院で安般念の修行を始めて、一年半ほど経った頃です(2004年ごろと思います)。
座禅・瞑想を開始して一炷の始め、軽いサマーディに入ろうかという頃、眼窩すなわち目の中に、湿った綿を詰め込まれた様な違和感があり、また、両頬は、目頭から口元にかけて、鼻の左側と右側に、一本づつ熱した火箸をさしこまれている様に、強烈に痛い。
これは安般念の修行の時、私が心(意識)を人中に置かず、鼻の中へ、鼻の中へと入れてしまったのが原因で、
<氣>が眼窩、頭頂部へ向かって上昇し、鼻の両脇、眼窩などに溜まった為と思われます(妄想しない為に、早目に息を迎えに行く様な感じで、心が人中から離れて鼻の中へと向かっていた、勿論無意識に、ですが)。
当時は、私には、この原理、副作用の事が分かりませんでした。
当時の瞑想指導担当のA尊者に、
「瞑想すると顔が痛い」と訴えても
「禅定に入れば平気になる、大丈夫だ」
というばかりで、
瞑想すると顔が痛くて修行が続けられないという事実に、正面から向き合ってくれることはありませんでした。
そしてようやく、2年前(2018年)に、台湾の法雨道場にて Ven. U Puññānanda 尊者にお会いして、
【心(意識)が人中から離れたまま、安般念を続けていいると禅病になる事】
を教わったのです(それまですでに15,6年の歳月が過ぎていました)。
座禅・瞑想して顔が痛い、頭が痛いという時、それを放っておいて、
<禅定に入りさえれば万事解決する>
という禅定万能論的教えは、間違っています。
それは例えば、大怪我で多量に出血している人間に
「禅定に入れば出血の事実を忘れられるから、常に禅定に入っていなさい」
と言っている様なものです。
これは、たとえ修行者が血を流しながら禅定に入れたとしても、やがて出血死してしまう、という事実を無視した教えです。
A尊者の指導通りに、顔の痛いのを我慢して、瞑想を続けていれば、その禅病は取り返しのつかない程の重症になった事でしょう。2年でやめて帰国したのは正解でした。
Ven. U Puññānanda 尊者の的を得た警告と、ヒーラーの先生のおかげで、私は禅病を治すことができて、近々、修行を再開する予定です。
お二方に感謝です。
注1:ここでいう禅病とは、間違った禅の修行方法によってもたらされる<気の偏差>と、それによって引き起こされる<副作用>をいいます。
禅病は他に、幻想、幻視、幻聴など各種あるそうですが、ここでは取り上げません。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>