世の中には、パオ・メソッド(注1)で修行してみると、
メキメキ上達して、3か月やら一年やらで vipassanā を完成させて、即、指導者になった・・・なんて人もいます。
しかし、その中で、残念ながら、vipassanā は出来ても、慈しみの心に欠ける人がいます。
私は昔、座禅・瞑想の上手な人は、みな、慈しみの心を持っているものだと思っていましたが、そうではない場合もある、という事です(人の業は、さまざま)。
仏教のサンガにおいて、個人崇拝は、ゴータマ仏陀自身が禁止しています。
ゴータマ仏陀を尊敬する余り、仏陀が外出先から帰って来ると、真っ先に出迎え、仏陀がどこへ行ってもその後について回る・・・仏陀は、この人を、サンガから追放してしまいました。
vipassanā を完成させた瞑想の指導者は、もうそれだけで尊敬に値いしそうではありますが、しかし、個人崇拝は怪我の元。
理想を言えば、vipassanā(止観瞑想) が出来て、なお、慈悲の心に満ちた指導者に出会う事、でしょうか(この様な指導者に出会えるかどうか、己の業や徳にも、かかってきます)。
良い指導者に出会えた場合も、指導者に必要以上に依存せず、自己を頼りに、戒と法を頼りに、修行生活を無事に、楽しく進めることが大切かと思います。
注1=パオ・セヤドーは、ご自分の考案された修行方法を<パオメソッド>と呼ばれる事を嫌います。
「止観瞑想は、ゴータマ仏陀の教え」
「私は、緬甸の地で、消滅しかかっていた止観瞑想を研究し、復活させただけで、私が発明したわけではない」との事です。
<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>