Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~無聊を超えて

先日、温泉プールで、Aさんに、お会いしました。

以前、一緒に「お謡」を習っていた時の仲間のお一人で、80歳を過ぎた女性です。

三年前、お謡の先生が体調を崩して、お謡の会は解散しました。で、Aさん曰く、毎日、暇で暇で、することがない。

実はAさん、毎日曜日には禅寺にでかけて、般若心経の写経を長年続けているのですが、「一人暮らしで、家にいてもすることがない」と言うのです。

禅寺に行って、写経するほどの人でも、座禅はしない、のですね。

日本では、禅宗は座禅を、浄土宗はお念仏を言うのですから、暇なとき、または朝夕決まった時間に、それらを実践すればよいのに、と私は思ってしまいます。

座禅・瞑想をしたからと言って、即刻、無常・苦・無我を悟る、という事は、なかなか有り得ないですが、長年(安般念を)実践していると、己自身の、起心動念の瞬間と、その動機と縁起が分かる様になって(=テーラワーダでは、サティが入る、と言う)、少欲知足の心が育ちます。

毎日することがなく無聊をかこつ老人、キレる老人にならない為にも、若い時から座禅・瞑想、念仏(注1)の習慣を養って、老境は穏やかに楽しく過ごしたいものだ、と(自戒をこめて)思います。

注1=私、以前は、念仏は、迷信の様に思えて、好きではありませんでしたが、念仏は、ゴータマ仏陀が教えた

<40の業処>の内の、仏随念の変形したもの、と考えれば、充分許容できます。

中国、台湾では、現在、臨済宗が主流ですが、念仏行は、禅宗の内にある、坐禅以外の、もう一つの修行方法であって、別途独立して《念仏宗》や《浄土宗》が、存在している訳ではありません。

中国、台湾の禅僧は、朝夕、座禅して、昼間の、来客があったりして、忙しい時間帯は、心の内で念仏を黙念し、手に持った数珠を繰る、という感じです。

座禅も念仏も、共に、正念を保つための修行方法、方便の一だと知れば、念仏を迷信と思うのは、私の誤解であった訳で、その様であれば、また別の疑問、禅宗と浄土宗が分裂している日本の仏教界は、一体どうなっているのかな?と思ってしまいます。

<緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>