翻訳『親知実見』#8-1
緒論(序論)<注12>
第一節 仏陀の教法
ある時、跋葛瓦が瓦基人(ワッジ人)の村の際に住んでいた。
そこで、跋葛瓦は、比庫(南伝の男性出家者bhikkhu、以下同様)たち<注13>に言った:
「比庫たちよ。
四聖諦(catunnaṃ Ariyasaccānaṃ)に対して
不随覚(ananubodhā)であり、
不通達(appaṭivedhā)であるが故に、
私とあなた方は、永い間流転し、輪廻した。
四種類とは何か?
比庫たちよ。
苦聖諦(Dukkhassa Ariyasaccassa)に対して不随覚であり、
不通達であるが故に、
私とあなた方は、永い間流転し、輪廻した。
比庫たちよ。
苦集聖諦(Dukkhasamudayassa Ariyasaccassa)に対して、
不随覚であり、
不通達であるが故に、
私とあなた方は、永い間流転し、輪廻した。
比庫たちよ。
苦滅聖諦(Dukkhanirodhassa Ariyasaccassa)に対して、
不随覚であり、
不通達であるが故に、
私とあなた方は、永い間流転し、輪廻した。
比庫たちよ。
苦の滅に向かう道聖諦(Dukkhanirodha-gāminiyā Paṭipadāya Ariyasaccassa)に対して、
不随覚であり、
不通達であるが故に、
私とあなた方は、永い間流転し、輪廻した。
故に、四聖諦は、仏陀の教導と教法の基本である(事が分かる)。
彼は引き続き、次の様に解説する:
「比庫たちよ。
[私は]この苦聖諦に対して、
已に随覚し、通達している。
苦集聖諦に対して、
已に随覚し、通達している。
苦滅聖諦に対して、
已に随覚し、通達している。
苦の滅に向かう道聖諦に対して、
已に随覚し、通達してる。
已に有愛を切断し、已に有を断じ尽くし、今已に、再び、後有がある有る事はない。」
(S.5.1091)<注14>
次に、我々は、四聖諦間の、相互関係を見てみよう。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>