三、無為法を知見する
一系列の修習を通して、先に諸行の生と滅を思惟し、その後に、ただ諸行の壊滅をのみ観じる。あなたは、次第に、その他の観智(Ñāṇa)を成就し、かつ、最終的には、無為(Asaṅkhata)を知見するであろう。無為を知見するとは、すなわち、不死(Amata)を知見する事である。かつて仏陀は以下の様に述べたことがある:<注79>
「世間を空と観じて、
摩克拉哲(Mogharāja)、常に念を具備する者は、
我執の見を放棄する、
この様に死を度し脱する;
この様に世間を観ずる(者を)、
死王は見ることができない。」(集経1125)
仏陀は、我々に対して、世間を空として知見する必要があると教導する。
彼の(言う)意味とは、世間とは常(nicca)の空、楽の空と我(atta)の空である、という事である。
通俗的に言えば、絶対的空を見る必要がある、という事である。
しかし、この事は、あなたの心が、絶対的に空である、という事を意味しているのではない。
あなたの心は完全に目覚めていて、そして、あなたの心が、絶対的空を知見しているのである。
あなたの心が、完全に目覚めている時で、かつ知見の対象が涅槃界ーー無為界(Asaṅkhata dhātu)<注81>である時、それはすなわち、出世間八支聖道を証悟したのであり、そしてその時、八項目のすべての要素は、涅槃を所縁とするものである。<注82>
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>