翻訳『親知実見』#16-4
実際、《清浄之道》は、ほかの所においても、類似の説明をしている、例えば、第四無色禅ーー非想非非想処定(nevasaññā-nāsaññāyatana)を説明する時。<注93>
《清浄之道》が、非想非非想処定を説明する時、以下の様に言う、
「想」は非常に微細であって、そうであって初めて「非想非非想処定」と呼ぶことができる。しかし、この時、「想」だけが非常に微細なのでは無く、受、識、触とその他のすべての名法もまた非常に微細なのである。故に、《清浄之道》では、非想非非想処定は、また、「非受非非受」、「非識非非識」、「非触非非触」等々と呼ぶ事ができる、という。(Vm. 287)
こうした事から、義注が、禅相のそれぞれ異なる事について、「想」が原因である、と述べる時、それはただ「想」という、単一の角度から入出息禅相を説明したもので、「想」(saññāsīsa)について述べて、「想」を(代表的な)例にしたものである。