例えば、ある禅修行者が、以下の様に考えたとする:
「ただ入息と出息に注意を払うだけで、ジャーナを証得する事ができるのだろうか?取相が白いコットンボールの様で、似相は透明な氷またはガラスの様だと言うのは、本当だろうか?」
この様な考えを長く続けていると、以下の様な見解を導くことになる:
「現今の時代に、ジャーナを証得する事は困難である。」
やがて、禅修行者は、教法に対する信心(=確信)が消失し、同時に、己自身が定の修習を放棄するのを止める事ができなくなる。
故に、入出息念を禅修行の業処として、定力の育成を実践する禅修行者は、堅固な信心(=確信)を擁する必要がある。(その様な禅修行者は)全く懐疑することなく入出息念の修行をするであろう。
彼は以下の様に思惟するべきである:
「ただ系統的に、正自覚者(正しい覚醒者)の教えに従って禅の修習をしさえすれば、私はジャーナを証悟する事が出来る。」
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>