しかしながら、若し、禅修行者の信心(=確信、以下同様)が過剰に強い時――ここで言うのは、似相の修習に対する信心であるがーーその場合、彼の定力は却って、弱まるのである。
行き過ぎた確信は、強すぎる喜(pīti)を伴っており、故に、感情的な波を引き起こす、そしてその場合、禅修行者の心が容易に喜悦の興奮の干渉を受ける結果、慧根が似相を了知する事ができない、という事態が生じるのである。
ここにおいて、過度の信心(=確信)が所縁に対して決定(勝解)を行い、結果、慧が不鮮明、不安定になり、その他の精進根、念根及び定根もまた、それにつれて、弱まってしまうのである:精進(の力)は、相応する名法を策励し、維持して似相に向かわせることができず、念は似相への覚知を確立する事ができず、定は心がその他の所縁に向かうのを阻止する事ができず、慧もまた、徹底的に似相に通達する事ができない。
故に、信心(=確信)が過度に強い時、却って信心をば、弱めてしまうのである。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>