故に、念は常に適用される。ちょうど、塩がすべての料理に適用される様に、または、総理が国家の大事のすべてを処理するのに適している様に。
故に、古代の義注では、跋葛瓦の話を引用して以下の様に言う:
「念はどの様な業処にも適合する。」
なぜであるか?
それは、禅修行における、心の帰依処であり、(心を)保護(する役目を負う)が故に。
念が帰依処である、というのはそれが、心が以前には到達した事なく、了知した事の無い、殊勝で、高度で、深遠な境地に到達するのを支援するからである。
もし、念がないのであれば、心は、如何なる殊勝で非凡な境地をも、成就することができない。
念は心を保護し、かつ、心をして、禅修行の所縁を忘れない様にする。故に、禅修行者が観智でそれを分析する時、念は常に禅修行の所縁と禅修行者の心を保護する役目を負って出現する事を発見する。
もし、念がないならば、禅修行者は、心を策励したり、抑制したりすることができない。
故に、仏陀は、念は一切に適合する、と言うのである。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>