<#21>シリーズは、中国語原文<p92~P 101>の
脚注の翻訳。
<注103>=如何にして息を平静にするかの詳細な研究は、P72を参照の事。
<注104>=慈心の修習:パーリ語では、mettābhāvanā。北伝仏教では「慈心観」と訳されているが、しかし、上座部仏教では、慈しみを修習するのは、定力を育成する止業処であり、故に「観」と称する事はできないと考える。
<注105>=名称があるのみで、実際には、それは禅相ではない。
<注106>=《清浄之道・四界差別の修習》(Catudhātuvavatthānabhāvanā)(Vm.306)の中において、以下の様に解説して言う:《長部・大念処經》(D. 2.378)と《中部・念処經》(M.1.111)において、仏陀は、牛をと殺する人が、牛の肉を一欠片づつ分けていくのを例えとしている。復注は、更に一歩進んで、如何にして、当該のたとえ話を応用して、三種類の密集を打破するのかを解説している。
<注107>=《大復注・汚垢を離れる生滅智論の解釈》(Upakkilesavimuttaudayabbayañāṇakathāvaṇṇanā)。
<注108>その他の類似した錯覚もある。
例えば「能知者は知っている」、
「造作者(創造神)は知っている」、
「覚知者は知っている」などなど。
人々は:「究極名色法は変化するが、しかし、『認知する事が可能な心』は変化しない」と誤解する事がある。
<注109>kuṭi:クティ。上座部仏教の僧侶、尼僧の住居、部屋または小屋。