Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#27-11

ここに、初診者がよくぶつかる問題がある。

あなたは、慈心を修行した事があるかも知れない。が、しかし、ジャーナを証得する事が出来たであろうか?

実際、もし、禅修行者が同性の誰かに慈愛を届けようとする時、彼は先にその人の微笑を伴った相貌を所縁として、その後に、その人に向かって「この善き人に内心の痛苦がありません様に」等として、慈愛を散布する。

初心者にとって、その笑顔はすぐに消失してしまう為、彼は慈心の修習を継続する事ができない。所縁が無いが故に、彼は慈心ジャーナに到達することができないのである。

もし、彼が白遍第四禅を運用できるならば、状況は異なるものになる。

当該のジャーナから出定後、彼が慈愛を散布してる時、先の定力のおかげで、その人の笑顔は消失しない。

彼は、当該の映像に深く専注する事ができ、かつ、一座の内において、慈心第三禅を成就することができる。系統的に修行して、異なる種類の人々の間の限界を突破した後、彼は《応作慈愛経》の中の、11種類の方法、及びパーリ聖典《無碍解道》(Paṭisambhidā magga)の中で提起されている528種類の方法<注123>を修習することができる。

こういう事であるが故に、我々は、通常、慈心禅を指導する前に、白遍を教導するのである。

あなたはまた、仏随念を修行した事があるかも知れないが、しかし、近行定に到達したであろうか?

すでに慈心禅ジャーナを成就した人が、仏随念を修行したいと」思うならば、彼は一座の内に近行定に到達することができる。これは、先の定力のおかげである。

彼らにとって、不浄を修習するのも非常に簡単である。もし、禅修行者が、不浄を修習して初禅に到達しているのであれば、次に死随念を修すると、一座の内に成就することができる。

これが、我々が、四護衛禅を教える前に、先にしろ遍を教導する理由である。

しかしながら、禅修行者が、四護衛禅を修したくないと思うならば、彼は直接vipassanā を修しても、問題はない。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>