ある日、アーナンダ尊者は、四種類すべての方法で縁起の修習をした後、夕方、仏陀の所へ行って、仏陀に拝見(礼拝して面会する)して、以下の様に言った:
「尊者、稀なるかな!
尊者、未曽有かな!
尊者、この縁起は奥深く、奥の深い相を具している。
しかし、私からみるに、浅くて分かりやすい」
仏陀は答えて言う:
「アーナンダ、この様に言ってはならない。
アーナンダ、この様に言ってはならない。
アーナンダ、この縁起は奥深く(gambhīro)、
奥深い相(gambhīrāvabhāso)を具している。
アーナンダ、この法に対して、
不随覚(ananubodhā)であり、
不通達(appaṭivedhā)である時、
この人は、絡まった棉糸の玉の様に、殻喇鳥の巣の線の様に、萱草の様に、灯心草の様に、苦界、悪趣、堕処、輪廻を超越することができない。」(D. 2.95;S. 2.60)。
上記の事柄は、随覚智(anubodhañāṇa)と通達智(paṭivedhañāṇa)を通して、縁起を知見しないのであれば、すなわち、生死輪廻(saṃsāra)と四悪趣(apāya)から解脱する事ができない、という事を意味する。
随覚智とは、
色限定智(Nāmarūpaparicchedañāṇa)と
縁摂受智(paccayapariggahañāṇa)の事を言い、
通達智は、すべての観智(vipassanāñāṇa)の事を言う。
故に、随覚智と通達智でもって、縁起を知見していないならば、涅槃を証悟することはできないのである。
この段の經文について、義註では、もし、縁起を知見しないのであれば、すなわち、誰も、生死輪廻から解脱することができない。たとえ夢の中においてさえも、と言う。
<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>