己自身を所縁として、100年修習しても、ジャーナを証得する事はできない。それなのに、なぜ、修習を始めた最初、己自身に対して慈を修するのか?
この修行は、およそ近行定でもよいから、達成しようというものではなく、己自身に慈愛を散布すると言う事は、すなわち、「私が楽しくあります様に」と思惟するのであるが、その思いは、その後、他人に及ぼすことができるからである。
まさに、あなたが(人生において)楽しさを希望し、苦しみを受けたくないと思い;
長寿を願い、死にたくないと思う様に;
あなた以外のすべての衆生もまた、同じく楽しくありたいと希望し、苦しみを受けたくないと思い;
長寿を願い、死にたくないと思うのであるから。
この様に実践するならば、あなたはその他の衆生の安楽と幸福を願う心を育成することができる。
仏陀は以下の様に言う:
”Sabbā disā anuparigamma cetasā
Nevajjhagā piyataramattanā kvaci.
Evaṃ piyo puthu attā paresaṃ
Tasmā na hiṃse paramattakāmo. ”
「注意深く、一切の、諸々の場所を探しても、
その愛が、己自身の愛を超える人を見つけることはできない;
この様に、衆生は皆、他人より己自身を愛しているのであるから、
己自身を愛する人は、他人を傷つけてはならない。」
(S.1.119 )