南伝仏教のDhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。尚、修行については必ず経験豊富な正師について下さるようお願いします。

翻訳『親知実見』#29-23

<PCの調子が悪いため、翻訳文UPが滞ることがあります。あしからず。>

如何にして死随念を修習するか

三番目の護衛禅は、死随念(maraṇānussati)である。

《大念処經》(Mahāsatipaṭṭhāna Sutta)<注137>と《清浄之道》<注138>によると、死随念もまた、あなた自身の記憶の中の死体を利用して修習することができる。

故に、あなたは、身体の厭悪の相をによって、初禅に入り、かつ、当該の外部にある死体を所縁として、以下の様に省察・思惟する:

「私のこの身体もまた、必然的に死を免れないであろう。

ちょうど、この死体と同じ様に。

この様な事態は避けることができないものである」

心をして己自身の死亡必定の本質に専注せしめ、かつ憶念する時、あなたは悚懼感(saṃvega、緊迫感)もまた上昇するのを発見するであろう。

この悚懼智によって、あなたは、己自身の身体が、一体の厭悪を伴った死体として見ることができるであろう。その映像の中の命根がすでに断絶している事を意識したなら、あなたは、以下の方式を用いて、命根の不存在に専注しなければならない:

1)私の死亡は、必然であり、私の生命は、不確定なものである

(maraṇaṃ me dhuvaṃ;

jīitaṃ me adhuvaṃ);

2)私は確実に死ぬ

(maraṇaṃ me bhavissati);

3)私の生命は結局は死亡する

(maraṇapariyosānaṃ me jīvitaṃ);

4)死、死

(maraṇaṃ、maraṇaṃ)。上記の内の一種類を選び、かつ、任意の原語でもってそれを黙念する。

諸々の禅支が生起するまで、己自身の死体の中の、命根の不存在、という映像に、持続的に専注する。たとえ、この種の禅修業処は、近行定にしか到達することができなくとも。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>