Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

翻訳『親知実見』#29-25

<PCの調子が悪いため、翻訳文UPが滞る事があります>

止を修する利益

法話を終える前に、我々は、止と観の間の関係性を簡潔に説明したいと思う。

仏陀は《相応部・蘊品・定経》(Samādhi Sutta)<注140>の中において、以下の様に言う:

「比庫たちよ。

定を修習しなければならない。

(Samādhiṃ、bhikkhave、bhāvetha)

比庫たちよ。

定力を有する比庫は、如実に了知することができる。

(yathābhūtaṃ pajānāti)。

何を如実に了知するのか?

[1]色の生と滅、

[2]受の生と滅、

[3]想の生と滅、

[4]行の生と滅、

[5]識の生と滅。」

こうしたことから、定力のある比庫は、五蘊五蘊の因及びそれらの生と滅を了知することができる(ということが分かる)。

彼は、因の生起により、五蘊が生起することを滅明晰に見ることができるし、因の完全な滅尽により、五蘊もまた完全に滅尽するのを見ることができる。

前の、二回の法話と、本日解説した所の、止の修習は、強力な禅定を生起させることができる。

まさに、この種の禅定の光(智慧の光)の助けを借りた時にのみ、あなたは、観の修習において、究極名色法を見ることができる。

この種の重厚な、強くて力のある禅定を通してはじめて、あなたは、名色及びその因である所の、無常・苦・無我の本質を、明晰に照見することができる。

この種の明晰性は、止の修習から齎されるものであって、その利益は巨大である。

止の修習は、また、あなたに休息の場所を提供する。

観の修習の時、非常に多くの法を識別しなければならないが故に、疲労が発生する可能性がある。この様な状況の下、あなたは、長時間、どれか一つのジャーナの中に安住して、あなたの心をして休息と活力の回復を図らしめることができる。

そして、その後に、戻って、引き続き観の修習を実践するのである。

毎回、疲労が発生する度に、あなたは、再度、ジャーナに入り、休息する事が出来る。

次に観の修習について法話をする時、止の修習に関するこれらの利益を覚えておく事は、(あなたの修行にとって)非常に役に立つのである。

<翻訳文責:緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>