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止を修する利益
法話を終える前に、我々は、止と観の間の関係性を簡潔に説明したいと思う。
仏陀は《相応部・蘊品・定経》(Samādhi Sutta)<注140>の中において、以下の様に言う:
「比庫たちよ。
定を修習しなければならない。
(Samādhiṃ、bhikkhave、bhāvetha)
比庫たちよ。
定力を有する比庫は、如実に了知することができる。
(yathābhūtaṃ pajānāti)。
何を如実に了知するのか?
[1]色の生と滅、
[2]受の生と滅、
[3]想の生と滅、
[4]行の生と滅、
[5]識の生と滅。」
こうしたことから、定力のある比庫は、五蘊と五蘊の因及びそれらの生と滅を了知することができる(ということが分かる)。
彼は、因の生起により、五蘊が生起することを滅明晰に見ることができるし、因の完全な滅尽により、五蘊もまた完全に滅尽するのを見ることができる。
前の、二回の法話と、本日解説した所の、止の修習は、強力な禅定を生起させることができる。
まさに、この種の禅定の光(智慧の光)の助けを借りた時にのみ、あなたは、観の修習において、究極名色法を見ることができる。
この種の重厚な、強くて力のある禅定を通してはじめて、あなたは、名色及びその因である所の、無常・苦・無我の本質を、明晰に照見することができる。
この種の明晰性は、止の修習から齎されるものであって、その利益は巨大である。
止の修習は、また、あなたに休息の場所を提供する。
観の修習の時、非常に多くの法を識別しなければならないが故に、疲労が発生する可能性がある。この様な状況の下、あなたは、長時間、どれか一つのジャーナの中に安住して、あなたの心をして休息と活力の回復を図らしめることができる。
そして、その後に、戻って、引き続き観の修習を実践するのである。
毎回、疲労が発生する度に、あなたは、再度、ジャーナに入り、休息する事が出来る。
次に観の修習について法話をする時、止の修習に関するこれらの利益を覚えておく事は、(あなたの修行にとって)非常に役に立つのである。